菅原地区

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この地区は江戸時代、大生郷、大生郷新田、伊左衛門新田、五郎兵衛新田、笹塚新田、横曽根新田に分かれ、それぞれ独立した村落であった。そのうち大生郷は古代既に集落が成立していたものとみえ多くの古代遺物が発見されている。戦国時代には、下妻多賀谷氏と小田原北條氏相互に前哨基地を築き、「関東古戦録」にも天神山城の攻防として収載されている。
 多賀谷氏衰退後大生郷は徳川氏の管地となり、寛永七年に伊奈氏の検地、万治二年(一六五九)には土井兵庫守利長の検地、寛文九年(一六六九)に幕府代官南條氏の検地があり、支配領主が目まぐるしく変遷したことを伝えている(『二宮尊徳全集』「大生郷村の仕法」)。
 江戸時代の検地による石高・田畑内訳は表のとおりであるが、寛永検地の案内人として監物(坂野)、大膳(石塚)等中世期の土豪の名がみえるのも大生郷村の成立ちを物語っている。
 
江戸時代の大生郷村検地(「文化2年村鑑明細帳」より作成)
検地年検地役石  高田畑合計田・畑内訳
寛永7<1630>伊奈忠治石 
744.332
町 畝 
94.59.15
田 27.48.08
畑 67.11.07
万治2<1659>土井利長267.89252.29.02 
畑 39.57.20
寛文9<1669>南條勘兵衛7.9533.97.20
延宝7<1679>南條金左衛門14.2543.39.01 
畑 3.39.01
享保15<1730>筧播磨守62.68120.89.18田 3.36.21
畑 17.52.27
石  
1097.112
町 畝 
175.14.26


 
 他はすべて新田村落で、その新田はまた享保年間(一七一六―三五)の飯沼開発と深い関係のあることが史料によって明らかになっている。飯沼新田開発についてはのちに述べることにして、この開発によって沼廻り三一か村が新田村落として成立した。そのとき菅原地区で開発された田畑反別は次のとおりである。
 
  大生郷村新田 九八九一畝二〇(高一七〇石余)
  伊左衛門新田 六一八一畝一九(高五六五〃)
  五郎兵衛新田 三六五一畝〇五(高四〇八〃)
  笹塚新田   二八一八畝一五(高三〇四〃)
  横曽根村新田 五六四〇畝一八(高五〇四〃)
 
 ところで、実際に高入された反別は大生郷村新田で四五パーセント(うち田の保有率二七パーセント)、以下伊左衛門新田で八六(九三)、五郎兵衛新田九八(四七)、笹塚新田一〇〇(六四)、横曽根新田一〇〇(七三)となっていて大生郷村新田のごとく開発反別が高いわりに石高の少ない土地条件の悪い新田村もあった。