この地区は概ね鬼怒川西岸に位置し、江戸時代大輪・花島・羽生の三村に分かれていた。しかし、この三村は既に中世期に成立していた村落で、宗任神社文書にも村名があり、また、「関八州古戦録」、「多賀谷旧記」、「東国闘戦見聞私記」にその名がみえる。
花島村には先に戦国末期の在地土豪渡辺氏の一族が帰農したことを述べたが、もう一人石塚左京亮義久の子孫が土着したといわれ、これらの人物が近世花島村の成立に何らかの関係をもったものと考えられる。寛永七年、伊奈氏の検地があり、検地帳に、田三五町五反四畝歩、畑五一町五反五畝歩、屋敷地一町四反六畝歩と五三名の百姓が名請され、除地として円徳寺、金亀寺がある。また、「寛文朱印留」には土井利房領とあり、寛文四年以降は大名領(無城)であった。
大輪村は、万治元年(一六五八)、下総古河藩主の叔父土井利房・利直領で、特に利直は一万石領主として大輪に封ぜられ、ここに、大輪藩を立て陣屋を設けて大いに地方開発のためにつくすところがあったが、その後延宝三年(一六七五)利直歿するにあたり、利直の兄であり古河藩主たる利房の子利良を養嗣子にむかえたが、それを単なる一族間の私事と解し、敢て幕裁を仰がなかったことが幕府の忌諱に触れ、一時は領地没収の沙汰にも及ぶところであった。しかし、大輪藩は幕府草創の功臣たる土井利勝の血族の故をもって特別の措置により、一万石のうち五〇〇〇石を減封し、利良を五〇〇〇石の旗本に貶(おと)してこれを遇することになった。若しこの大輪が減封さられることなく、依然一万石を領する領主の陣屋として存続していたならば、この地は純然たる農村としてではなく、少なくとも領主在住の政庁所在地として城下町的要素をもったところになっていたことであろう。
羽生村は戦国土豪羽生氏の拠ったところで、戦国末期には横曽根にその拠点を移したと思われる。寛文五年(一六五五)、飯沼弘経寺領を羽生村内に替地した文書が「寛文朱印留」にみえる。「下総国岡田郡羽丹(ママ)生村之内百石雖為先規豊田郡飯沼郷内就川闕今改替於此所事」とあり、河川の決壊によって流失した寺領を羽生村に宛行ったもので、これは村高の約四分の一に当っている。
大花羽地区は享保一〇年(一七二五)、吉田用水の通水によって灌漑の便をよくしたが、いわゆる新田開発は行われず江戸時代を通じて村高推移は周辺の村落に比較して非常に少ない。