豊岡地区

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豊岡村は明治一九年(一八八六)、飯沼村、報恩寺村、横曽根村、横曽根古新田を統合して一村をなしたがそれ以前は独立した村落であった。しかし、飯沼村については寛永一二年(一六三五)以降飯沼弘経寺領をいい、寺領については前項で述べた如く羽生村内にあり無高で、恐らく浄土宗の本寺として門前町を形成したと考えられ、幕末の「村書上」では家数一八軒を数えている。
 報恩寺についても同じような経過を辿ったものと考えられるが、その成立は鎌倉初期まで遡ることができる。親鸞聖人ゆかりの寺院として、また、弟子性信上人と真宗門徒のかかわりから門前は多くの賽者をあつめ、本寺は近世初頭江戸に移ったにも拘らず三〇石の朱印地を有し、塔頭として聞光寺、一條寺、光圓寺、等正寺、正法寺をのこし、安政二年(一八五五)の「村書上」には家数二五軒、人数一三三、馬六の賑いを見せた。報恩寺村は寛文四年(一六六四)、堀田正俊(後の古河藩主)と関宿藩板倉領の相給となっている(「寛文朱印留」)。
 横曽根村は鬼怒川西岸台地に位置し、中世期には北下総地方の浄土真宗、浄土宗の中心地として栄えた。特に、真宗は、「二十四輩牒」・「親鸞上人門侶交名牒」にもみえ、有力な門弟を揃え横曽根門徒を率いた。また、浄土宗では聖冏上人が横曽根談義所を中心に布教活動を行ったことは既に中世編(第三章第三節参照)で述べたとおりである。さらに、戦国時代天正期北條氏政文書に「横曽禰市」とあり、横曽根大明神(諏訪社)の門前市を形成していたことがわかる。この神社については近世に入って慶長九年(一六〇四)、伊奈備前忠次から五石の社領を安堵されている。
 横曽根村は寛文四年には土井利房領となっているが、ほぼ徳川期を通じて天領で、元禄以前に横曽根新田を成立させている。さらに、享保年間の飯沼開発では新たに五〇〇石余の村請新田を生んだ(横曽根新々田)。これによって以前の新田は横曽根古新田と称した。
 横曽根古新田は飯沼開発では排水堀設置の対立から開発組を脱退したため、村請地は取上地となり、その後五郎兵衛新田分となっている。文政一〇年(一八二七)の農間渡世調べでは、家数一〇六軒のうち、居酒屋二、菓子屋一、肴売九、豆腐屋一、果物屋一、大工二を記録していて(『村明細帳の研究』野村兼太郎著)、江戸時代中頃から盛んとなり文化文政期には水海道鮮魚商人と訴訟問題を起こすなど周辺村落とは異なった社会層のあったことを示している。