絹西地区

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この地区は大塚戸村、菅生村、内守谷村、坂手村の四か村からなり、江戸時代は下総国相馬郡に属していた。東を鬼怒川、西を菅生沼に挾まれ、地形は概ね平坦な洪積台地で水田の比率は畑地に比較して極めて低かった。絹西四地区の村落成立は古く、大塚戸村の「太閤検地」にみるように戦国末期にはその形態を整えていた。
 
  此度官途之儀望み候間、其の意に任せ候。何れも目出度く、猶、珍重に存じ候。
  仍って件の如し
   元和九年  相馬小次郎
    卯月七日    政胤(花押)
       佐賀主水殿
 
 この文書は、元和九年(一六二三)佐賀主水に出された官途状で、相馬政胤は守谷城主相馬秀胤が徳川氏に随身し五〇〇〇石の旗本になってからの人物で、「寛政重修諸家譜」には秀胤の弟とある。政胤は慶長・元和の大坂陣に参戦し、子貞胤も寛文四年には相馬郡内で一二〇〇石の知行を得ている旗本で、佐賀主水はこの政胤に取り立てられ、その子孫が何かの事情で菅生に帰農したものと考えられ、その後元禄期には菅生村の村役人を勤めている。
 絹西地区にはこのように中世土豪の系譜をもつ家が多く、例えば大塚戸村の長妻家、菅生村の寺田・倉持・大滝家、坂手村の長塚家、内守谷村の坂巻・鈴木・中茎・小磯家なども近世初期それぞれの村に土着し、その後村落の開発農民になった者が多い。
 絹西地区の本格的開発がすすめられるのは、大塚戸、菅生、内守谷が揃って関宿藩牧野領となる元禄一〇年代(一七世紀末)で、それまでは例えば支配領主一つとっても、坂手村は寛文四年(一六六四)堀田正俊領、菅生・大塚戸村は旗本一色右京知行、内守谷村旗本北條氏知行と大名領(無城)・旗本領の他に天領も入り組んだ複雑な構成だったために地域全体を開発する動きはなかった。
 このような中で、関宿藩の政策の一環として行われた大塚戸・菅生・坂手・内守谷村入会の小谷沼干拓事業は元禄一四年(一七〇一)一応の成功をみ、周辺の村々に大きな影響を与えた。小谷沼開発については別項で述べるが、この開発によって、大塚戸村は一三一石余、菅生村二七五石余・坂手村二九四石余・内守谷五〇一石余の村高が増加し、内守谷村に至っては旧高の二倍以上を示した。