水海道市周辺及び市域の領主

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江戸時代、水海道市周辺及びその市域を支配していた領主は何人であったか、いま、それについてできるだけ詳しく調べてみることにしよう。
 この地方は江戸からそれほど遠くはなれてもいなかった関係で、幕府は最初から家臣団配置の方針として、その大部分を旗本知行所にあてたと見え、その知行所は他の支配領に比べ群を抜いて多かった。そこでいまここにその支配領を分類して見よう。
 
       石 斗
  天領(幕府領) 七、三八九、四
  領知(2)(田安領) 二、五三九、四
  領地(大名領) 一、二七四、八
  知行所(旗本領)一六、四一三、三
  寺社領(朱印地)   三二三、九
  除地(3)    一六、八


 
 以上のように江戸時代、水海道市域の所領関係は旗本知行所がもっとも多く、全所領二万七九四〇石(除地分をのぞく)のうち、一万六四一三石三斗を占め、その比率は実に五八・九パーセントにあたり、この領主(又は地頭という)は五七家に達していたので、これを平均すると一家当たりの所領は約四九〇石となる。しかも五七家の領主はほとんど一〇〇〇石以上の高禄をうけている旗本なので、水海道市域にもっている知行所のほかにも、さらに各地に分散して知行所があった。これは幕府の意図的な封地政策のあらわれで、封地をうける旗本としてはまことに不便であったが、幕府としてはこれによって旗本の知行所における支配権の強化を制限することができ、さらに何かの理由によって一部の知行所を取り上げる場合、大きな混乱を避けることができた。ここで一部ではあるが参考のため旧村旧領主と、その石高を表(4)にしてみた。
 
旧 村 名旧領主名石 高知 行 高備   考 (支配地等)
   
花島川勝氏二四四五五〇下総国岡田・武蔵国葛飾・常陸国筑波郡内
大輪土井氏四八七五〇〇〇下総国岡田・武蔵国葛飾埼玉郡内
羽生蜷川氏三五三二〇〇〇下総国岡田豊田・常陸国真壁郡内
報恩寺小笠原氏七四五  ?小笠原姓一〇家、いずれも一〇〇〇石以上
十花建部氏一七四  ?建部姓四家、いずれも一〇〇〇石以上
兵右エ門新田酒井氏一六〇  ?酒井姓一八家、一〇〇〇石以上一三家、五〇〇石以上五家
水海道日下氏七一六一二〇〇下総国豊田相馬海上郡内
相野谷竹本氏二二七  ?竹本姓五家、一〇〇〇石以上二家、五〇〇石以上三家
長助新田鷲巣氏二〇四一〇〇〇下総国豊田・相模国津久井郡内
小山戸松平氏七〇  ?松平姓七八家、一〇〇〇石以上四七家、五〇〇石以上三一家
箕輪酒井氏一五二  ?酒井姓一八家、一〇〇〇石以上一三家、五〇〇石以上五家
三坂新田石谷氏四五五二五〇〇石谷姓四家、一〇〇〇石以上二家、五〇〇石以上二家
下川崎天野氏一〇六  ?天野姓一〇家、一〇〇〇石以上三家、五〇〇石以上七家
上蛇森川氏一五五森川姓一〇家、一〇〇〇石以上三家、五〇〇石以上七家
福崎高城氏五八七〇〇
中川崎河野氏二五六  ?河野姓一〇家、一〇〇〇石以上二家、五〇〇石以上八家
上川崎竹田氏一三五  ?竹田姓三家、一〇〇〇石以上一家、五〇〇石以上二家
中妻井上氏三〇〇  ?井上姓九家、一〇〇〇石以上五家、五〇〇石以上四家
福田渡辺氏二八八五〇〇下総国豊田香取海上郡内
三坂山本氏五七八  ?山本姓六家、一〇〇〇以上三家、五〇〇石以上三家
坂手高林氏二五一六〇〇
菅生山田氏一二三八〇〇


 
 因みに、内守谷村については坂巻家文書に領主の変遷が詳しく記録されていたので、左に掲げることにする。
 
  天正一八年――元和 三年土岐山城守定政・定義(大名守谷藩)
  元和 五年――寛永 五年土岐山城守頼行(大名守谷藩)
  寛永 五年――承応 元年伊丹播磨守康勝(天領)
  承応 二年――万治 元年細田庄兵衛時徳(天領)
  万治 元年――元禄一〇年北條安房守正房・氏平(旗本領)
  元禄 二年――宝永 二年牧野備前守成貞・成時・成春(大名関宿藩)
  宝永 三年――延享 三年久世大和守重之(大名関宿藩)
  延享 四年――明治 三年田安領(大名)


 
 以上のように、現水海道市域に所領をもつ旗本はすべて五〇〇石以上、五〇〇〇石にも及ぶものがあるにかかわらず、諸家の所領はいずれも数百石にすぎない。したがってこれらの旗本は他所にもここと同様に所領のあったことは事実である。このような分散封地は先にものべた幕府の意図的政策であるが、これによってはなはだしきは一村に数人の領主が存在するというところも多くあった。いま現水海道市域の例を、次の表によって見ることにしよう。
 
村 名所 領 高領 主 名備 考
   
花 島幕 府天 領
三〇六森川主税知行所
二四七山角式部
二四四川勝勝兵衛
阿弥陀堂朱印地
鹿島社
上 蛇一五五長田兼太郎知行所
一五五森川妥女
一六二佐々木寛四郎
一六二内藤隼人
一五一富永鷲吉郎
一五一稲生七郎右衛門
一五一初鹿野伝右衛門
内守谷一、五四五田安中納言領 知
五二幕 府天 領
川 又六三一土浦藩領 知
一五幕 府天 領


 
 このように、一村に天領、田安領、土浦藩領、旗本領など数人の領主のあることは、徳川氏に従属する以前からの大名たる島津、伊達、前田、浅野、黒田、毛利、山内、蜂須賀、鍋島など、一国領主として封ぜられた所領以外は、江戸時代においては決してめずらしいものではなかった。これらはすべて幕府の封地政策によるもので、分散所領の領主はひとり旗本だけではなく、前記中世以来の前記のような、近世になって幕府に取り立てられた譜代大名にも多く見られるところである。例えば、前表に見る土浦藩のごときは、その禄高九万五〇〇〇石ではあるが、本城土浦を遠くはなれた川又村の六三一石をはじめ、現在の谷和原、伊奈、藤代の各町村に一万一六五〇石七斗九升五合の領地があった。当時、これらの所領を「飛地領」といい、一村にその飛地領が数か所ある場合はこれを「相給領」と称し、相給領のある村の名主は領主の数によって何給名主といった。たとえば上蛇村のように七家の所領がある村では、これを七給名主と呼んだ。
 江戸時代、殊に関東地方における所領関係は犬牙錯綜して、まことに複雑をきわめていた。したがって領主による統一的な行政は行われず、大名領、旗本領ともに少高の所領は幕府の代官にその支配を委任したことは先にも述べたとおりであるが、それでもなお所領が一地方に多く散在している大名、旗本はその所領を支配するため、出先機関として役所又は陣屋と称するものを置き、それぞれ吏員を派遣して支配業務をとらせた。たとえば駿河国田中四万石の本多藩のごときは、現在の松戸市、流山市、柏市、沼南町等に約一万石の飛地領があったので、それを支配するため加村(現、流山市)藤心(現、柏市)に役所を設けていた。加村の役所は明治維新後、新たに設けられた葛飾県、印旛県の県庁にあてられたことは、よく人の知るところである。
 
  
  (1) 同姓の大名が続いて封ぜられているが、それらはいずれも別な大名家であり、また、中には関宿藩
    の久世、守谷の土岐、土浦の土屋は時代をへだてて同家系の大名が封ぜられたものである。
  (2) 領知とは田安、一橋、清水といわれた徳川家の一門御三卿の所領のことである。はじめこの三家は
    八代吉宗の次子宗武が田安家を、四子宗尹(ただ)が一橋家を、九代家重の次子重好が清水家をそれぞ
    れ創立し、紀州、尾張、水戸の三家につぐ家柄として遇したが、いずれも徳川家の一家族であるとの
    建前から所領を与えず、ただ一〇万石の蔵米を支給されるのみであった。ところがのち延享四年(一
    七四七)にいたり、各地の天領のうち一〇万石に見合う所領を与えられたので、この三家にあてられ
    た所領にかぎり、これを領知と称した。ところがこの領知の領民は依然天領意識がうしなわれず『俺
    たちは公儀(幕府)の百姓だ』といって威張っていたという。
  (3) 『除地』とは寺社や庶民の功労のあった者に与えられた土地で、年貢の免除はもとより、その土地
    から収穫されたものは自由に処分することができた。なお、寺社の場合は多くその境内地が除地とし
    て認められていた。水海道市域の除地は庶民に属するものはなく、すべて寺社の所有であった。この
    ほか現在の千葉県下に『給地』と称する所領がある。これは江戸の南北町奉行に所属する与力(より
    き)に与えられた所領で、与力は禄高二〇〇石であるが、南北町奉行に所属する与力の総員は五〇名
    であったから、それに対して一万石を上総、下総両国にわたり一括して与え、その所領を特に給地と
    称した。
  (4) この表は茨城県史料維新編載『郷村受取旧高簿抄』により、旧岡田郡四、旧豊田郡二二、旧相馬郡
    四、筑波郡二、合計四〇か村のうち二二か村を抽出し、領主も五七家のうち二二家にかぎり、それを
    『寛政重修諸家譜』、『文政旗本武鑑』、地方史料によって総知行高支配国郡をもとめて旧領主欄等
    に記入した。しかし、郷村受取旧高簿抄に記載してある旗本の氏名はこれらの資料に記載してある氏
    名と必ずしも一致していないため、姓のみを挙げて記入することにしたが、旗本家によっては同姓の
    家が多く、どの家が郷村受取旧高簿抄記載の家なのか識別することができないので、同姓多数の旗本
    家はその総家数を挙げ、それを禄高一〇〇〇石以上と五〇〇石以上に分けて備考欄に記入した。