村の性格とその住民

417 ~ 418 / 517ページ
もともと村というものは一つの行政単位として支配階級による支配の対象となっている多人数の集合体である。その村は江戸時代にはいると、支配階級は貢租収納の効率化をはかるため、村の再編成を行うことになった。それは自然発生的に成立した集落を、近世における支配階級が支配をするのに都合の好いように、各集落を整理統合する必要を感じ、それがため一定の基準を設けて新たにつくり出したものがいわゆる近世村落である。それには生産高の均等化、地理的条件と住民の同族的結合及び各集落における習俗的共通性を考慮し、それを前提として比隣の各集落を分離又は併合して境界を画定した。この政策を「村切り」といい、近世村落はこれによって成立の基礎をかため、住民はその構成分子として重要な要素をなしていたのである。
 村には多くの住民が生活していたことはもちろんである。江戸時代、その村の住民はすべて農業に従事する農民であった。ほかに大工、左官、鍛冶、商業などにたずさわる者がいたが、その者でも「村方明細書上帳」などに記載される場合は、農間大工渡世、農間左官渡世、農間鍛冶渡世、農間酒屋渡世と称し、本業は農業であるが大工、左官、鍛冶、酒屋は農業の片手間に余業として営んでいるのに過ぎないといっていた。しからばどうして江戸時代はこのように、農民であることを表面に出さなければならなかったのか、それは江戸幕府の農本主義による農業政策にもとづくものである。
 江戸幕府の農業政策は、農は国の本(もと)なりとの、既成観念によるもので、江戸時代の為政者はもとより、諸派の学者までその観念の上にたっていた。例えば貝原益軒はその著「君子訓」に「古の明王は農を重んじて工商を抑へ、五穀を貴んで金玉を濺しみ給へり云々」といい、また、荻生徂徠は「政談」に「本を重んじ末を押ると云ふこと、是(これ)古聖人の法也。本とは農也。末とは工商也云々」といって、さかんに農本主義を唱えている。
それがためひとり農業のみが尚ばれる社会が出現したのである。