貴族社会や武家社会ではその人物の権力関係によって、上下の階層が自ら分かれたであろうが、庶民の社会では権力関係などは余りかかわりなく、専ら伝統的理由によるものが多かった。例えば、あの家はもと武家の出(中世在地武士の末流)であったとか、またはもともと大地主(中世名主(みょうしゅ)の末流)であったとかいうことである。
それらの理由によって一般の村民は彼らに対し敬意を表することになり、それが自然に上下の階層をつくる意識となって表われたのである。
私たちはいま昔の農村を物語るとき、よく名主とか庄屋とかいう言葉をつかう。名主と庄屋は同じもので、地方によっては肝入(きもいり)と呼ぶところもある。その名主は一村の首長でいまでいえば村長にあたる役柄の者である。それとともに組頭というのがある。これは別に長(おさ)百姓又は年寄ともいい、この二役は主として支配者の利益を代表するものであるが、ほかに一般農民の利益を代表するものに百姓代又は脇百姓というのがあった。右に挙げた名主、組頭、百姓代を地方(じかた)三役又は村方三役といい、その任務とするところは、名主は一村を統轄するため、支配者からの命令を伝え、年貢の収納に立会い、村内に対してはある程度の司法権を行使するなど、大きな権限をもっていた。それに対する役料として名主給が現物(米)で支給されるか、高引きと称して年貢を減額されていた。組頭は名主の補佐役であり、また村内の各組の頭で、大体入札(選挙)か村民協議の上で選ばれ、名主と同じく組頭給があって、その給与の方法は現米又は年貢の減額であった。百姓代はこれまた村民から選ばれ、村民一同の立場から名主、組頭の村政運営を監視するのがその役目であった。
さて、以上述べた地方三役であるが、伝統的要素の極めて濃厚な農村社会において、どのようにして三役のような指導層を選んだか、おそらくその初期のころはまず家柄、財産、才幹などを考慮し、それにふさわしい条件を備えた者を選んだのであろうが、のちには、特に江戸時代の中期以降、農村構造が大いに変貌を来たした時期には、必ずしも家柄などは重視されず、専ら人物本位で選ばれるようになった。しかし、なお一部には伝統を重んずる気風も存し、名主の職にいたっては世襲の村も多かったようである。
さらに一般農民にいたっては貢納の義務を負う者を本百姓又は高持百姓といい、それは自分の所有する田畑に依存して生活をしている者のことである。また、水呑百姓は他人の田畑を賃借りし、それを耕作して生活を営む者のことで、これを小作百姓ともいう。このほか日傭百姓といって労働力を提供し賃金を得て生活する農民もいた。このように農村の構成は数段階に分かれ、おのおのその分に応じ、互いに相犯すことなく秩序を保って生活を営んでいたのである。以上のように各階層の農民はいたが、三役以外の者を称して小前(小前百姓ともいう)といい、三役を含めた全村の農民を惣百姓といった。
「貞享4年(1687)水海道村切支丹改」にみる村構成 |
分 区 | 戸 数 |
名 主 | 1 |
組 頭 | 10 |
小百姓 | 106 |
棚借り | 34 |
門 屋 | 3 |
水 呑 | 27 |
定 使 | 1 |
門 前 | 4 |
神 主 | 2 |
夷 | 2 |
渡し守 | 1 |
総人口 | 1091人 |