江戸時代の封建制度は農業の生産力を下部構造として、その上に築きあげられたものであるから、農業の生産力の消長はただちに封建制度の根底をゆるがす大きな問題であった。したがってその生産力の原動力となる農民に対しては、支配階級は「百姓は財の余らぬやうに、不足なきやうに、治むること道なり」(「本佐録」)という理念のもとに、あらゆる面において制限を加えた。そのもっとも顕著なものは有名な慶安のお触書である。このお触書は慶安二年(一六四九)二月二六日に一般的法令として公布されたもので、全文三二条から成り、その内容はことごとく当時の支配階級の根本的な考え方である農本主義にもとづく重農思想を基本とし、さらに農民を愚民視した上に立って農民を統制するため、その生活を極度に制限したもので、そのねらいは農民を束縛し、それによって生じた余力を生産増強に振りむけようとするものであった。これによって農民には最低の生活を要求し、その下で最大の生産を強要し、飽くなき収奪をはかったのである。いまここにその慶安のお触書とはいかなるものであったか、特に農民生活を規制し、その細部にわたって干渉した部分を挙げることにしよう。
一、公儀御法度を怠り、地頭、代官の事をおろそかに存ぜず、さてまた、名主、組頭をば真(まこと)の親
とおもうべきこと。
一、朝起をいたし、朝草を刈(か)り、昼は田畑耕作にかかり、晩には縄をない、俵をあみ、何にてもそれ
ぞれの仕事油断なく仕るべきこと。
一、酒茶を買い飲み申すまじく候。妻子同前のこと。
一、百姓は肥(こえ)、灰(はい)調えおき候儀専一に候間、雪隠(せっちん)をひろく作り、雨降り候時分、
水入らざるように仕るべし。
一、百姓は分別もなく、末の考えもなきものに候故、秋になり候得ば、米、雑穀をむさ(無闇)に妻子にも
喰わせ候。いつも正月、二月、三月時分の心を持ち、食物を大切に仕るべく候につき、雑穀専一に候間、
麦、粟、稗、菜、大根そのほか何にても、雑穀を作り、米を多く喰いつぶし候はぬように仕るべく候。
一、家主(一家の主人)、子ども、下人(奉公人)等まで、ふだんは成程(なるべく)疎飯を喰うべし。ただし、
田畑をおこし、田を植え、稲を刈り、一入(ひとしお)骨折り申す時分は、ふだんより少し食物をよく仕
り、たくさん喰わせ、使い申すべく候。
一、男は作(耕作)をかせぎ、女房は苧(お)(機織(はたおり))をかせぎ、夕なべを仕り、夫婦ともにかせぎ
申すべし。されば美め容(みめかたち)よき女房なりとも、夫のことをおろそかに存じ、大茶を飲み、物
まいり遊山ずきする女房を離別すべし。
一、百姓は衣類の儀、布木綿よりほかは帯、衣裏(きものうら)にも仕るまじきこと。
一、春秋灸(きゅう)をいたし、煩い候はぬように、常に心がくべし。
一、たばこのみ申すまじく候。是は食にもならず(腹の足しにもならぬ)、結局以来煩いになるものに候。
一、(上略)右のごとくに物ごとに念をいれ、身持ちをかせぎ申すべく候。身持ち好くなり、米金雑穀をも
持ち候はば、家もよく作り、衣類食物以下につき心(こころ)のままなるべし。米金雑穀をたくさん持ち
候とて、無理に地頭、代官よりも取ることなく、天下泰平の御代なれば、脇より押え取る者もこれなく、
然らば子孫までうとく(有徳)に暮し、世間飢饉の時も妻子、下人等をも心安くはこくみ(育(はぐ)こむ)
候。年貢さへすまし候得ば、百姓程心易きものはこれなく、よくよく此の趣きを心がけ、子々孫々まで
申し伝え、能(よ)く能く身持ちをかせぎ申すべきものなり。
と、まったく支配階級の一方的御都合主義によるもので、特に「百姓は分別もなく、末の考えもなきものに候故云々」といって農民を愚民視し、さらに「大茶を飲み、物まいり遊山ずきする女房を離別すべし」といって、個人の家庭生活にも影響を及ぼすようなことを敢て成文化するなど、きわめて専制的なものであった。しかし、それも封建社会が農民による土地からの生産に依存した経済組織であるから、土地を唯一の生産手段とする農民に経済的余力が生じ、それによって現体制を否定するような動きでもおこれば、農民にとっては寄生的存在である支配者(武士階級)はたちまちその脅威をうけるからである。それがため幕府は農民に対し、このような強力な抑圧政策をとり、その生活を規制したのである。そのうえ幕府はさらに農民統制のために五人組制度を布き、農民生活の全般にわたって厳密な規制を設けるにいたった。