年貢

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農業の生産力を基盤としてその上にきずきあげられた封建社会は、これを支配する武士階級の権力によって維持されていた。したがって、武士階級は農業生産物の大半を年貢として徴収し、これによって支配権を行使するための経済的基盤とした。
 江戸時代、年貢は原則的には四公六民の比率をもって徴収したが、それも江戸中期以後になると各種の文化が進展し、それにともない武士階級の消費経済もまたふくれあがり、したがって四公六民の比率では支配権力を支えるのに困難をきたす場合も生じた。そのときはその比率の原則を破り、それ以上の高率をもって年貢を徴収することもあった。
 年貢は領主たる武士階級にとっては重大なる関心事であり、また、生産者たる農民にとっても最大の負担であった。年貢が支障なく上納することができ、また、支障なく収納することができれば一応平穏は保たれたが、一朝その間に破綻をきたすと大きな社会問題に発展することがある。例えば百姓一揆等がそれである。
 領主と領民の年貢関係は、まず領主から発せられる納税通知書ともいうべき年貢割付が交付されることにはじまり、皆済目録という年貢領収書の発行をもって終わりを告げるものであるが、いま、それに関する史料を引用しよう。
 天明二年(一七八二)一〇月、天領長助新田に代官辻六郎左衛門から、次のような年貢割付状が村役人宛に渡された。
 
    寅御年貢納むべき割附の事
   検見取     下総国豊田郡長助新田
  一高弐百四石九斗壱升
    此反別三拾三町三反九畝拾三歩
      拾九町九反七畝廿四歩    田方
     内  内拾弐町三反七畝三歩  畑成米取
      拾三町四反壱畝拾九歩    畑方
     此訳
   中田 八反弐歩
       内壱畝拾五歩、当寅付荒不作皆無引
   下田 五町四反三畝廿五歩
       内三反廿九歩、当寅不作皆無引
   下々田 壱町三反六畝廿四歩
       内五畝    右同断
   中田畑成 壱町九反五畝拾七歩
            米取反壱斗弐升
   下田畑成 拾町四反壱畝拾六歩
            米取反壱斗壱升弐合
   中畑四町弐反八畝九歩
   下畑 六町三反七畝八歩
     内訳
    六町三反四畝拾三歩  本免
    弐畝廿七歩     卯芝地成取下
              反ニ永拾文
   下畑 八反弐畝拾歩
     内訳
    七反八畝弐歩     右同断
    四畝八歩       右同断
   下畑 壱反四畝
   下々畑 壱町三反□畝
   屋敷 四反五畝廿弐歩
   取 米三拾七石五斗八升三合
     永拾貫五百五拾四文四分
     外
  一屋敷五畝        見取
    此取永三拾文五分 但反永六拾壱文
  一永六拾壱文五分    卯より新規
    此反別四反壱畝   百姓藪銭
  一米壱斗弐升三合    御伝馬宿用
  一米四斗壱升      六尺給
  一永五百拾弐文三分   御蔵前入用
   納合 米三拾八石壱斗壱升六合
      永拾壱貫百五拾八文七分
   右は検見取り御取箇(おんとりか)書面の通り相極め候条、村中大小の百姓入作(小作人)のものまで残ら
  ず立会い高下なくこれを割合い、来る極月十日限り急度皆済せしむべきものなり
   天明二寅年十月
        辻六郎左衛門印
                                 右村
                                   名主
                                   組頭
                                   惣百姓
 
 とある。
 この割付けは天明二年(一七八二)のもので、検見(けみ)取りによってきめられている。もともと江戸時代の年貢徴収の方法は検見法と定免(じょうめん)法との二つに大別されていた。このうち定免法の免とは石高に賦課する租率のことで、定免とは既往数年又は一〇数年間の租額を平均して率を定め、一定の期間これを変更することなく、豊凶のいかんにかかわらず定法どおり納めさせるものである。もっともその年、不慮の洪水や旱魃などで作物が実らなかった場合は、特にその実情を査定して率を減免することもあり、これを破免といった。この定免法によれば毎年租額が一定して領主側には便利であるが、反面農民側には不作の場合極めて不利なものであった。
 また、検見法の検見とは毛見の義で、田の立毛(たちげ)(作物)を見分して収穫を実際に査定する方法である。検見の方法は領主から派遣された検見役人が領内の各地にいたり、坪刈(つぼがり)と称して村内上、中、下などに格づけされた田地に対し、一坪あたりの収穫を検査し、これを標準として全収穫を見積り、その年の租額を定めるものである。この方法は一見公正なように見られるが、毎年租額が一定せず、しかも検見役人の私曲が行われる弊害があるので、必ずしも適法であるともいえなかった。そのころの年貢はもとより田畑に賦課するものに重きをおき、これを本途(ほんと)、又は本途物成りと称して正税とし、田畑以外の山林、原野等から生ずる収穫に対して賦課するものを小物成りといった。これは本途の正税に対し雑税に相当するものである。また、これとは別に領主から免許を得て酒造、質屋渡世をいとなむ者等に対しては冥加、運上などの雑税もあった。さらに引用史料のうち伝馬宿入用、六尺給代石、御蔵前入用などとあるが、これは三役又は高掛物(たかかかりもの)といい、伝馬宿入用は宿駅における費用に充てるもので、享保の定めでは村高一〇〇石につき米六升であった。六尺給石代は六尺給米ともいい、幕府のかごかつぎ(輿丁)や料理人に給するもので、同じく享保の定めでは一〇〇石につき米二斗である。御蔵前入用は貢納の際に要する雑費にあてるもので、永文が徴収された。この三役は当時、幕領のみに実施されたものである。
 長助新田の村高二〇四石九斗一升に対し、米で三八石一斗一升六合、永(現金)で一一貫一五八文七分(ぶ)納めるようにとの割付であった。永一一貫はこれを両に換算すると一一両になる。この割付に対し長助新田では異存なくこれをうけ、期限までのこらず納めたことによって、次のような皆済目録がわたされた。
 
      寅御年貢皆済目録
           下総国豊田郡長助新田
  高弐百四石九斗壱升八合
  一 米三拾七石五斗八升三合  本途
  一 永拾貫五百八拾四文九分 右同断見取共
        内三拾文五分  見取永
  一 永六拾壱文五分     小物成
  一 永百四拾八文六分    御伝馬宿入用
    此米壱斗弐升三合  寅御張紙直段三両増
             但
              米三拾五石に付四拾両替
    此斗立壱斗三升
  一 永四百九拾四文九分  六尺給石代
    此米四斗壱升
             但右同直段
    此斗立四斗三升三合
  一 永五百拾弐文三分     御蔵前入用
  一 永壱貫弐百九拾七文壱分  口米石代
     此米壱石七升四合
                 但右同直段
     此斗立壱石壱斗三升五合
  一 永三百拾九文四分     口永
  一 永弐百五拾五文三分    葭石代
     此葭弐斗五合      金壱両ニ付
                但
     此斗立弐斗壱升七合   八斗五升替
  一 永三百九拾三文六分    大豆石代
     此大豆四斗壱升     金壱両ニ付
                但
     此斗立四斗三升三合   壱石壱斗替
  一 永百三拾七文三分     細餅米石代
                 金壱両ニ付
     此細餅米五升七合   但
                 四斗壱升五合替
  一 永八拾弐文        太餅米石代
     此太餅米四斗壱合    金壱両ニ付
                但
                 五斗替
  一 永六拾八文四分      同籾石代
     此太餅籾五升弐合
     此米弐升六合      金壱両ニ付
                但
                 七斗六升替
  一 永三五百六拾八文     丑より已まで五ケ年賦
                 夫食代返納
  一 永三百五拾五文     右同断
                 右同断
  一 永六百弐拾四文     右同断
                種麦代返納
  一 永三百四拾六文壱分弐厘  寅より午まで五ケ年賦
                 種籾代返納
  合 米三拾七石五斗八升三合
     此斗立三拾九石七斗三升三合
    永拾六貫弐百四拾八文四分弐厘
  右渡方
    米壱斗八合五勺  葭伐永渡
     此葭弐斗壱升五合
    米弐斗壱升六合五勺 大豆代永渡
     此大豆四斗三升三合
    米壱斗六升壱合   太細餅永籾代永
     此餅米壱斗弐升四合 三割増とも
    米壱石六升八合九勺  中妻河岸より弐分八厘
               運賃永渡
  納合 米三拾八石壱斗七升六合壱勺 御廻米
     永拾六貫弐百四拾八文四分弐厘
       外拾三文五分    壱分銀
  右は去る寅御年貢本途小物成高掛り、内口米永其の外書面の通り皆済せしめ候につき、度々渡し置き候小
  手形引き替え一紙目録相渡し候条、重ねて小手形差出し候とも反古(ほご)たるべきもの也。
   天明三卯年三月
        辻六郎左衛門印
                              右村
                                名主
                                組頭
                                惣百姓
 
 右史料のうち皆済目録に記載されている口米、口永とは年貢を上納するときに要する雑費にあてるもので、正税たる本途に対する附加税的なものであり、さらに年貢米の目減りを補うために缼米(かんまい)というものを徴収したが、これもまた口米、口永とともに附加税的なものであった。