夫役

433 ~ 438 / 517ページ
江戸時代の農民は年貢のほかにさらに夫役(ぶやく)という大きな負担を課せられた。夫役とは支配階級が農民から労働力を徴発して自己の用途に供する制度で、古代律令制による傭(租、傭、調)の制度に由来するものといわれている。ところがその律令制が崩れたのち、中世になると地方の在地豪族や有力農民が、それに隷属している農民からほしいままに労働力を徴発し、あるいは軍事的目的のため、又は農業経営のために使役していた。しかるにそれが近世になって幕藩体制が確立するとともに、こんどは統一権力の下に農民から徴発する労働力を夫役という名目で、支配階級の使役に提供させるよう、全国的に制度化したのである。その使役の目的も戦国の余風いまだ収まらなかった時期には、軍夫や築城工事の要員として多く徴発されたが、のちにはもっぱら道路普請や河川普請などの土木工事をはじめ、助郷人夫として使役するようになった。
 以上のように農民が夫役として課せられるもののうち、もっとも農民の負担となり、その生活を圧迫したものは助郷である。助郷とは幕府が宿駅制度を設けたとき、五街道(東海道、中山道、日光道中、奥州道中、甲州道中)と脇街道(伊勢路、佐屋路、美濃路、山陽道、長崎道、日光御成街道、例幣使街道、水戸道、佐倉道、鹿島・棚倉道)を利用する大名の参勤交代や公用旅行者の荷物の継立てを行うため、一定の人馬を宿場ごとに常備してその用に供することにはじまったが、その後交通需要の増大にともない、江戸中期には東海道では一宿場に人夫一〇〇人、馬一〇〇匹、中山道と美濃路では人夫五〇人、馬五〇匹がおかれ、その他の街道では二五人、二五匹と常備人馬の数も増加された。ところがさらに時代を下るにしたがい、公用旅行者が激増し、それとともにこれに要する人馬の需要は到底、常備定数の人馬では対応しきれなくなったので、臨時に宿場附近の農村から人馬を徴発してそれを補充することにした。それを助郷と称し、その村を助郷村といった。はじめ助郷村の範囲は宿場を中心にして二、三里(八~一二キロメートル)であったが、人馬需要の増大にともない漸次その範囲も拡大され、ついには一〇里(四〇キロメートル)以上にも及ぶようになった。また、この助郷は常時徴発されるものを定助郷といい、定助郷のみにては需要に応ぜられない場合、さらに遠隔の地にある農村から徴発するものを加助郷又は大助郷といった。こうして助郷がさかんに徴発され、それが恒常化されると、その事務を処理するために助郷会所が設けられたが、水海道市周辺の宿場には会所の設けはなく、助郷事務はもっぱら宿役人において処理していたようである。
 助郷はもとより夫役の一種であるから、それに対する金銭的な報酬はなく、しかも助郷徴発の時期は農耕の繁閑を問わず、随時徴発されることが多いので、農繁期に助郷として徴発されることは農作業に大きな支障をもたらし、また、大助郷として遠隔の地から徴発される場合、徴発された人馬が指定の宿場に到着するまでには半日もしくは一日を費し、助郷役を終えて帰村するまでさらに半日、一日を費すことになるので、一日の助郷役を勤めるために前後の日数を計算すれば、それだけ農作業がおくれ、農民の負担はまことに大きなものであった。そこで農民は助郷を課せられた場合、金銭をもってこれに代える慣習が生じ、それがついに一般化するようになった。これについては次のような史料がある。
 
     請取之覚
   一金拾弐両壱分
   右は当四月御法事につき其の御村方当宿(力)助郷仰せつけられ候ところ、遠村の儀故正人馬勤め差出し
   かね候趣をもって、御示談これあり、書面の金子只今皆金たしかに受取り申し候。然る上は宿方にて人
   馬請け切り、買揚(かいあ)げ人馬に致し、聊か差支えこれなく相勤め申すべく候。これによって念のた
   め請取書差出し申し候。以上。
    嘉永三戌年四月十八日
                               鹿沼宿
                               問屋 利右衛門印
                               同  兵右衛門印
                               年寄 政右衛門印
 
 これは嘉永三年(一八五〇)四月、一二代将軍家慶が、三代将軍家光の二〇〇回忌法要で日光へ社参するとき、助郷を課せられた三坂新田が、指定の参集場所たる野州鹿沼宿(現、栃木県鹿沼市)まで人馬を供することは困難であるが、その代償として金銭を出すから、それによって人馬を雇い入れてもらいたいといって、その代金一二両余を支払った領収書である。
 この助郷にははじめに次のような人馬の触当があった。
 
   紙札をもって御達し申し候。当四月日光山において御法事あらせられ、その外御用御通行多分につき、
  今般道中御奉行所様よりその御村に当宿方へ当分助郷仰せつけられ候。右につき村々名主、与頭衆印形御
  持参にて早速当宿へ御出なされ、御本紙拝見御請印形なさるべく候。此の書面御披見次第早々人馬御用意
  なされ、四月朔日(ついたち)より銘々村高に応じ人馬引き連れ、方料相添え一同遅滞なく当宿へ御詰めな
  されべく候。且つ承知の旨村下へ附紙にて請印形なさるべく候。以上。
   戌三月廿六日       日光道中
                 鹿沼宿
                                問屋 利右衛門
                                同  兵右衛門
                                同  金次
                                生寄 政右衛門
 
 この触当は三坂新田をはじめ下総国豊田郡のうち十花、下川崎、中川崎、上川崎、上蛇、福崎、福田、曲田、雑方、豊田の各村にも通達され、課せられた人馬は村高一〇〇石につき人足四人、馬二匹となっている。さらに右の人馬を賃銀で雇うとしたならば、人足一人が二〇〇文、馬一匹が四〇〇文と相場がきめられていた。
 三坂新田ではこの触当に対し、到底その負担に堪えられず、直ちに次の歎願書を領主に提出した。
 
    恐れながら書付をもって願い上げ奉り候。
   御知行所下総国豊田郡三坂新田役人惣代兼組頭藤兵衛申し上げ奉り候。当月四日日光道中野州鹿沼宿役
  人中より廻状をもって申し来たり候儀は、此の度日光御法事につき、其の村々最寄(もより)豊田郡の内都
  合拾一ケ村へ、当月朔日より同晦日(みそか)までの間、右宿へ加助郷御伝馬仰せつけられ候間、村々高八
  分通り百石につき人足四人、馬二疋づつの触当につき、右の心得をもってそれぞれ罷り越すべき趣き承知
  仕り候へども、右宿までは道法(みちのり)十七里余もこれあり、以前より人少なく困窮仕り居り候村方に
  御座候処、去る酉年(嘉永二年)十二月中、御上様(領主石谷安芸守)泉州御奉行(泉州堺奉行)仰せつけられ
  候につき、村々へ多分の夫金(ぶきん)仰せつけられ候処、私共村方は夫金出来兼ね、先月十日御発駕遊ば
  され候につき、村役人共は勿論小前の者共へ荷物人足多分仰せつけられ、道中登り日数十七日間の由、右
  につき未だ立帰えり申さず、右宿へ加助郷人馬相勤め候もの壱人も御座なく、殊に麦作取入れ、夏作蒔仕
  付(まきしつけ)の時節、程なく田植え等にも差迫り候処、右宿方へ多分の人馬数日の間相勤め候ては、恐
  れながら夫食(ぶじき)等にも差支え、迚(とて)も相勤め申せず、一村潰(つぶ)れ候外はこれなく、歎(な
  げ)かわしく存じ奉り候間、何卒御慈悲をもって右次第□□□仰せ立てられ、此の度の御伝馬人足御免仰
  せつけられ度、御憐愍(れんびん)の程御聞き済み下し置かれ候様願上げ奉り候。以上。
   嘉永三戌年四月六日
                        御知行所
                             下総国豊田郡三坂新田
                                役人惣代兼組頭
                                    藤兵衛
            御地頭所様
            御役人中様
 
 こうして三坂新田では現在おかれている村の苦境を訴え、地頭を介して助郷の免除を願い出た。その結果が前記のように金一二両余をもって雇替人馬を、鹿沼宿の役人に調達させることになったのである。
 江戸時代の助郷制度は、助郷を課せられた農村が人馬を差し出す場合でも、また、金銭をもってこれに代える場合でも、農民生活に及ぼす影響は極めて多く、それがやがて農村疲弊の原因となり、ために助郷に関する問題がその事務を掌る宿場役人との間に多く発生したことは事実である。例えば水海道市秋場家文書の中にある「明和二酉年中、取手宿江加助郷人馬減少願書扣」、「天保十四卯年五月、取手宿大助郷議定書扣」また、守谷町椎名家文書の中にある「弘化三午年二月、定助合野木崎村外弐拾ケ村訴状之写」さらに取手市染野家文書の中にある「天保十五辰年七月十七日、大鹿村訴状之写」などの史料がそれを物語っている。
 助郷問題は当時の農村社会では農民の生活に大きなかかわりあいをもっているだけに、この問題が発生した場合、それに対応する処置を一歩あやまると大事件にまで発展する可能性をふくんでいた。文化元年(一八〇四)一〇月、稲敷郡牛久宿を中心にして五五か村六〇〇〇名の農民が蜂起した百姓一揆は、実に助郷問題に端を発した事件である。この一揆に関しては『常久肝胆夢物語』、『牛久騒動女化日記』など、幾種類かの記録が残されているので、その大要を知ることができる。