鬼怒、小貝の河川改修

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水海道市域には東に小貝、西に鬼怒の二つの川が並行して北から南に流れている。その両川の間に挾まれている地帯は一望見わたすかぎりの平坦地で、ひとたび両川の水が溢れるような場合は、たちまち洪水の被害を蒙ることは必定であった。そこで住民はもとよりこの地を支配する領主は、常にそのことを念頭におき、その対策を考えていたであろう。しかし、この地域はおおむね旗本知行所に属し、しかも相給領が多く、統一した水防整備事業を行うことははなはだ困難であった。ところが水害はそれらの事情にかかわらず不時に発生するものであるから、たいがいの場合、水防対策は被害発生後、国役普請として行われるのが通例のようであった。
 ここに「御用諸色両川入用出入帳」という史料がある。これは寛保二年(一七四二)五月と八月の両度にわたり鬼怒、小貝の両川が氾濫し、川堤、圦樋、橋などが破損したため、幕府は藤堂和泉守、仙石越前守に命じ、土木お手伝いとしてその復旧工事にあたらしめた。この復旧工事は水海道、横曽根、羽生、中妻、小山戸の五か村にわたるもので、これに要した資材購入等の費用一切は水海道村名主秋場権左衛門と同村宝洞宿の黒鳥小左衛門が取り仕切り、それを記録にとどめておいたものである。なお、このときの工事の内容及びその工法については明らかにされていないが、工事に用いた資材によって大体それがどの程度のものであったかを知ることができよう。
 
  一、去る戌年五月并びに八月大水にて、秋作残らず水腐れ致し、勿論鬼怒川、小貝河堤、圦樋、橋洗い等
  皆破(かいは)致し候につき、御大名様方御手伝にて御公儀より大御普請遊ばされ候ところ、御上(おかみ)
  御慈悲を以って御助御普請にて、在々の老人男女子共少々の土持ち致し、拾文より四拾文まで其の身相応
  の賃銭下され、かつ(飢渇の意か)に相及び候もの共相助り申し候。前代未聞の沙汰と老人まで評判致し候。
  それにつき当村横曽根、羽生、中妻、小山戸五カ村の御普請入用の諸色所請け(入用品現地調達)に相願い
  候ところ相叶い候上、権左衛門殿、拙者(黒鳥小左衛門)両人にて引請け申し候。御普請初の儀は戌極月よ
  り御取掛り、当亥三月中旬まで右五カ村相仕廻り申し候。これに依って御直段并びに諸色入用の高代積り
  金子出入等左に記書致し候。     以上。
   寛保三年亥三月
  右五カ村御普請御役人様
   鬼怒川通御手伝
    藤堂和泉守様
   同川通御普請役
       安松藤蔵様
       石合唯八様
   小貝川御手伝
    仙石越前守様
    同川御普請役
        秋葉勘蔵様
        飯泉□右衛門様
   御普請中御廻り遊ばされ候御目附様并びに御奉行業方の御名の覚
    惣目附 佐々源左衛門様
        中山五郎左衛門様
    御徒目附 土田半右衛門様
             元八様
        是は松前隼人様方へ御附人
    御奉行 松前隼人様
        花房兵右衛門様
    御勘定奉行
        神尾若狭守様
         御附人 堀江□四郎様
 
 右の史料によっても知られるとおり、このときの普請は伊勢国津の藤堂藩と但馬国出石の仙石藩が、土木お手伝いとして幕府から命ぜられたもので、その費用はすべて両藩において負担したものである。そこで水海道市域五か村の普請に要した資材及びその調達については一切これを委任された秋場、黒鳥の両人が、それを詳細に記録したのが次にかかげる「諸色入用高覚」である。
 
 下総国豊田郡水海道村分
一、埜萱   弐百六拾弐束
  代永 弐拾九貫弐百九十文三歩
一、山萱   弐百四拾七束五歩
  代永 (虫喰)
一、葉唐竹  三千六百六拾九束
  代永 五貫九百八文弐歩
一、杭木   六百六拾九本 但シ弐間半
  代永 七貫六百八拾九文六歩
一、同    千九百廿九本 但シ弐間
  代永 拾六貫弐文三歩
一、同    四百四拾七本 但シ壱丈物
  代永 弐貫九百六拾文三歩
 右代永合
  同所圦樋入用
   但シ本大圦樋の分
   同所仮〆切り入用
一、明(あき)俵  千七百弐拾俵 但シ米の明俵
  代永
一、縄    五百七拾六房
  代永 (虫喰)
   是は御目論見(もくろみ)より外大□□御遣こみらが(文意不明)石洗の御目論見にて御入被成
    (虫喰)
   代永合
  一、埜萱   百七拾弐束弐歩
    代永 三貫七百□三文□歩
  一、葉踏竹  三百四拾四本
    代永 五百五十三文九歩
  一、笹葉竹  五百七拾四本
    代永 三百三十五文壱歩
  一、杭木   百七拾本 但シ長壱丈
    代永 壱貫百廿五文五歩
   代永合 五貫七百拾七文□歩
 
 以上は水海道村分だけのものであるが、このほかにも同じ形式で詳記した横曽根、羽生、中妻、小山戸四か村の分も載っており、この改修工事に要した全費用は藤堂藩が四万五一一〇両、仙石藩が六六〇〇両となっている。しかし、藤堂藩の四万五一一〇両のうちには鬼怒川改修工事費用のみではなく、権現堂川、思川などの分もふくまれ、この三川の改修延長四六里(二六四キロメートル)にわたり、また、仙石藩も小貝川一九里(七六キロメートル)の改修工事に要した費用であるから、水海道市域五か村の改修工事の費用はそのうちの一部分に過ぎない。
 江戸時代、諸藩の土木お手伝いは参勤交替とともに諸藩の財政を消耗させ、その経済力をうばうという言わば幕府保身のために設けられた制度である。それゆえこの制度は諸藩にとっては好ましからぬものであって、特に鬼怒川、小貝川の改修工事のように領国を伊勢、伊賀(現、三重県)に持つ藤堂藩、また、但馬(現、兵庫県)に持つ仙石藩としてはまったく縁もゆかりもないところだけに、両藩にとってはまことに幕府の措置に対し、快く思わなかったことであろう。