八間堀

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小貝、鬼怒両川の間は沖積層から成る低湿地帯であり、それが耕地として開発されたのは中世末期から近世初期にかけてのことである。したがってこの地方における初期のころの水田耕法はもっぱら自然に依存する面が多く、極めて幼稚なものであったと想像される。とりわけ水田に引いた水の余水の処理については、地形上極めて困難であったと思う。それのみならず雨季にはいっそうその困難が加わり、冠水などによって被害をこうむることも多かったであろう。ゆえにこうした困難を克服するためにはそこに余水を排泄するための、いわゆる悪水落しの水路をつくらなければならなかった。
 いま、水海道市の地図を見るに三坂新田、沖新田町、平町、相野谷町を経てゆるやかな曲線をえがき、市街地橋本町を貫いて鬼怒川に注いでいる一筋の溝渠がある。これを八間堀川という。この川の水源は石下町の本豊田であるが、それは寛永一二年(一六三五)、当時の関東郡代伊奈備前守忠治の発案により、三坂新田の名主猪瀬太右衛門らがこれに協力し、豊田郡(1)の悪水落しとして人為的に開削したもので、その流路は豊田郡のほぼ中央を南北に貫き、ついには相馬郡寺畑村(2)にいたって小貝川に注ぐようになっていた。しかるにこの悪水落としの堀川も、はじめは同一代官の支配であったから、それによって水除け、堀浚(さら)いなどもしばしば行われ、管理も充分行き届いていた。しかし、その後五、六〇年を経るうちにこの地もあるいは代官支配、あるいは旗本領支配などと支配関係が複雑化し、しかも一村に何人もの支配領主が存在する相給領になってからは、そうした管理も充分に行われなくなった。それがため水湛えなどによる被害も多く、このような悪水落しの堀があるためにかえって農民は迷惑をこうむることになった。殊にもっとも迷惑をうけたのは堀川の下流にあたる大生領一五か村の農民であった。そこでこれらの農民は元禄八年(一六九五)、いままで小貝川に注いでいる八間堀川を、河床の低い鬼怒川へ注ぐようにすることを幕府に請願した。しかし、幕府はこの請願に対して許可を与えなかったので、さらにその翌々年にあたる元禄一〇年(一六九七)一〇月、再び請願をすることにした。農民としてはよくよくその迷惑に堪えなかったのであろう。
 
   恐れながら書付を以って御訴訟申し上げ奉り候。
    (前段省略)
  一、小貝川水除け、堤所々水当り御座候へ共、御一領に御座なく候故、二十年此の方堤三、四度押切れ、
   百姓家立ち致し、困窮仕り候。同じく山田源右衛門様御代官所寺畑村落し野地へ開き申し候水、きぬ川
   へ落し申し度願い申し奉り候事。
  一、満水にて右の野地へ開き申し候水、きぬ川まで此の間百間ほど御座候。きぬ川地低にて、水長一丈五
   尺瀬違い申す様に相立ち申し候へば、たとへ霖雨にて満水仕り候とも、此の所水落ち仰せつけられ候は
   ば、常陸谷原ともに小貝川通り堤はもちろん、堤外押畑へ開き申し候所まで、のがれ申すべくと存じ奉
   り候。御見分の上、水落ち御普請仰せつけ下され候はば、大野(生か)新田内の水相違なく落ち、御所務
   も上り、殊に大勢の百姓永く助り申し候。御慈悲御検使下され候はば有がたく存じ奉り候御事。右は願
   の場所絵図に仕り差上げ申し候。委細御尋ねの上恐れながら口上にて申し上げ候。已上。
     元禄十丑十月
                                       大生領十五ケ村
   御奉行様
 
 こうして二回目の請願書を提出することになったが、このときは幕府もその実状を察してか、請願のとおり新堀を開削して鬼怒川へ落とすことに決し、翌、元禄一一年(一六九八)一一月、検使役として代官手代諸星蔵之助、依田五兵衛に命じ、一反歩につき金四両ずつをもって用地を買収し、その買収がおわるやただちに工事に着手することにした。それはまずいまの相野谷町角井(すまい)に竹洗堰を設け、八間堀川の水を鬼怒川と小貝川に分け、小貝川には圦樋を、鬼怒川には門樋を各その落口に設けて増水時の逆流を防ぐことにした。このようにして工事をすすめ、それも順調にはかどり、早くも翌、元禄一三年(一七〇〇)二月、ついに完成を見るにいたったのである。
 

八間堀川 (石洗附近)