吉田用水と江連用水

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用水とは元来灌漑、飲料、工業、発電、消火などを目的とする水の利用とその管理を意味するものである。しかし、ここでは専ら灌漑を目的とした吉田、江連の両用水のみについて述べることにする。
 水海道市域には近世になってから前述の二大用水が設けられた。その一つ吉田用水は鬼怒川の右岸にあたる花島町、大輪町、笹塚新田町を経て東仁連川に落ちている。この用水は享保一〇年(一七二五)七月に通水し、当初は「飯沼代用水」として計画されたが、その後、結城、岡田郡台地の田畑を潤す用水となったもので、その源は下野国下吉田村(現、栃木県河内郡上三川町)地先の鬼怒川より取り入れ、それを水源として用水に利用し、沿岸の八八か村は大いにその恩恵に浴したのである。しかし、その一方ではこれら受益者による維持管理もまたきびしく、特に末流部にあっては渇水時の取水をできるだけ円滑にする必要上、各地域ごとに用水路組合をつくり、維持管理に関する取極めを結んでたがいにこれを遵守することにした。次にかかげる史料は花島村をはじめ、大輪村、羽生村、横曽根村、古新田、新々田、笹塚新田、庄左衛門新田の八か村で取り極めた議定書ともいうべきものである。
 
    出会場取極め一札の事
  一、吉田用水路年番の儀厳重に勤め方致すべく候事。
  一、当節渇水につき組合村の内右村筋見届け候ところ、年番のみにては手廻りかね候儀につき、村々一同
   相談の上渇水の砌(みぎ)りは過惣代相立て手抜りなく手廻し仕り、流水仕り候よう取り計い申すべき事。
  一、過惣代諸入用の儀は年番方にて過惣代相頼み候儀につき、右入用の儀年番方にて差出し申すべき筈、
   尤も元水不足にて流水仕らず候はば、過惣代入用の儀はその組合村々にて差出申すべき事。
  右の通り花島村集会場にて取り極め申し候ところ相違御座なく候。以上。
             文久弐戊年四月廿四日
                   吉田用水路組合
                    下八ケ村
                     花島村
                     惣代名主
                      市左衛門
                      武兵衛
                        (以下、各村の記名は省略す)
 
 農民はこのようにして用水の維持管理については万全を期していたが、それでも多くの受益村落の間には、またそれぞれ異なった事情のため利害の相反することもあり、それによって多少の問題も起こらないものでもなかった。例えば宝暦一二年(一七六二)四月、吉田用水利用村が取り交わした「為取替申相対一札之事」などはその一つである。しかし、それもまた農民の自主的判断によって「右の通り此の度惣組合熟談の上内済仕り候。後日の為、済口(すみくち)証文仍ってくだんの如し」との一札を取替していずれも円満な解決を見ている。
 

吉田用水 水海道付近の図

 以上、吉田用水について述べたが、こんどは江連用水について述べることにしよう。
 鬼怒川の東側、関鉄常総線の西側をほとんど鬼怒川と併行して流れているのが江連用水である。この用水も灌漑を目的として設けられたものであるが、その水源は下野国芳賀郡上江連村(現、栃木県二宮町)にあるので、江連用水の名がつけられたのである。はじめ伊奈忠治が寛永一二年(一六三五)この地方に悪水落しとして八間堀川を開削したことは既に述べたが、同時に伊奈氏は灌漑用水として中居指(現、下妻市)、本宗道、原(現、千代川村)、三坂(現、水海道市)の四か所から鬼怒川の水を取り入れ一筋の水路をつくった。ところがその後、鬼怒川は新疏の開削によって利根川に直結したため、しだいに河床が下がりこのため前記の四か所からの取水に著しく困難を生じる結果となった。ここにおいて幕府は、約一〇〇年後の享保年間にいたり、勘定奉行配下の能吏として、また紀州流の土木技術者として知られていた、勘定方の井沢弥惣兵衛為永をして既設の水路の改修にあたらせたが、これによって開通をみたのが江連用水である。
 為永はまず水源を遠く下野国芳賀郡にうつし、新たにこの地に溝渠を開削してこれを常陸国真壁郡に引き、さらに南へ延ばして下総国豊田郡に水を引き入れることにした。その間、廃溝になっていた四か所の用水路を修復してその地域の水源として利用するなど、まことに意を用いた施工であった。こうして江連用水が完成したのは享保一一年(一七二六)と伝えられるが、用水の完成によって配水をうける地域は真壁郡で四〇か村、豊田郡で九か村であった。しかし、この用水もまた年月を経るにしたがってその状況に変化を来たし、ついには用水として効用をなさなくなるという事態も生じた。その時は関係村々の農民が一斉に起(た)って幕府に対し、有効適切な対策を求めるのであるが、それに対して幕府は容易にその請願を受けいれなかったという経過もあって、農民の代表者は死を決し、出府して要路の大官に駕籠訴を企てたこともあった。文政六年(一八二三)五月、荒川又五郎、稲葉儀右衛門、猪瀬周助らの企てた計画がそれである。彼らはまず事前に「儀右衛門又五郎周助誓約之事」と称する盟約を結び、その中に、
 
   当郡一躰(帯)皆不作と相成り、哀れなる有様見るに忍びず、これによって春中申し談じ候通り、時節待
  ち居り候ところ、□もこれなき儀につき、愈々御駕籠訴出府致すべくと云々。
 
 といい、さらに「議定之事」を定め、その中に、
 
   四ケ所用水模様替えの儀、我等重立再三願い上げ奉り、昨冬御見分仰せつけられ御取調べ相済み候とこ
  ろ(中略)三人の内代々(かわる/\)御願い立て仕り、一郡田方滞りなく植付(うえつ)け候様相成り候まで、
  何度にても御願い立て仕り申すべく候(中略)容易ならざる大望誓約致し候上は、朋友の信失わざる儀明暮
  (あけくれ)心掛け、三人一身に心得、天の御恵みを待ち奉るべく候。
   右の趣き相背くに於ては神罰を蒙るべく候。これに仍って議定致し置き候ところくだんの如し。
    文政六未年五月三日
                             荒川又五郎 印
                                豊里
                             稲葉儀右衛門 印
                                忠義
                             猪瀬周助印
                                 愿
 
 右の「議定之事」のうちにある三人のうちかわるがわる願い立て、一郡の田方とどこおりなく植えつけられるまで、何度でも願い立てるというその執念と、その悲壮な決意は、読む者を感動させる。
 この駕籠訴の企てはこれより先荒川ら三人が旱魃のため荒廃した農村を救うため、四か所用水の復旧を請願したが容易にうけいれられなかったため、ついに非常手段に訴え、時の老中水野出羽守に直訴しようとしたものであった。
 こうして、文政一〇年(一八二七)一二月、願人総代として上蛇村伊右衛門(山崎)を選び、江連用水の再興を訴願した。そして翌年一月から測量調査が開始され、その年の一二月「皆御入用」を以って用水模様替えが許可されることになった。文政一二年(一八二九)六月二九日多くの農民が見守るなか待望の開閘を迎え、「十里の長程に歓声がわいた」といわれている。
 
  
  (1) 鬼怒川左岸一帯の地はもと豊田郡といい、その右岸は岡田郡といっていたが明治二九年四月、この
   二郡を廃して結城郡に合併した
  (2) 相馬郡寺畑村は現在の筑波郡谷和原村の大字であるが、もとは相馬郡に属していた。明治八年相馬
   郡は南北に分割され、北相馬郡は茨城県、南相馬郡は千葉県に属し、のち明治二九年四月、南相馬郡は
   合併して東葛飾郡となった