飯沼開発

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弘化二年(一八四五)三月に成立した清宮秀堅の著『下総国旧事考』の巻一〇『川沢』の部に飯沼と題して次のような記事がある。
 
   飯沼(和名抄ノ飯潴ハ即チ其ノ地ナリ。郷ハ沼ニ因ミテ名ヲ得。将門記ノ幸島、広江ハ是ナリ)ハ猿島、
  結城、岡田三郡ノ間ニ在リ。猿島郡仁連ヨリ岡田郡横曽根ニ至ル縦七里バカリ、横一里余、沼ヲ環(メグ)
  ラス村落廿四、其ノ源ハ下野宇都宮地方ヨリ来タリ、坂手ニ至リテ鬼怒川ニ入ル。
   按ズルニ此ノ沼、久シク曠廃ノ地タリ。寛文九年地方建議シテ開墾ヲ請ウ。宝永三年再ビ請ウ。官(幕
  府)之ヲ按検シテ其ノ請イヲ允(ユル)ス。然レドモ費用ノ多キヲ以テ果タサズ。享保七年令(御触書)アリ、
  諸国応(マサ)ニ開墾スベキノ地アラバ官ニ詣(ユ)キテ之ヲ請(コ)エト。是(ココ)ニ於テ是(コ)ノ歳七月、
  里正(名主)某(秋葉左平太)市尹(シイン)(町奉行)ニ就(ツ)キテ之ヲ請ウ。其ノ八月、環沼(沼ノ周辺)廿四
  村合議シテ之ヲ請ウ。八年二月、県令松平某(代官松平九郎左衛門)司計岡田某(勘定役岡田新蔵)覆検(幾
  タビカ調査スル)シ、各村ヲシテ意見ヲ陳(ノ)ベシム。或イハ云ウ、横曽根、坂手ノ間ニ故渠(古イ溝)ヲ
  開拓セント、或イハ云ウ、新渠ヲ内守屋(谷)、坂手ノ間ニ開キ鬼怒川ニ入レント、或イハ云ウ、新タニ猫
  実、宮沼、小屋新田等ノ地ヲ疏鑿(ソサク)シ菅生ヨリ直チニ利根川ニ入レント、其ノ用度ハ共ニ私金ヲ以
  テ之ヲ弁ジ、敢テ公帑(公金)ヲ煩ワサズト。是ニ於テ伊(井)沢為永ニ命ジ、其ノ陳ブルトコロ数所ノ地高
  低遠近ヲ測視ス。猫実、宮沼口ハ其ノ長サ三千五百間、而シテ利根川ニ達ス。利根川ノ水面ハ飯沼ヨリ低
  キコト一丈九尺二寸、横曽根古渠口ハ鬼怒川ノ水面、飯沼ヨリ低キコト六尺九寸一分、内守谷川辰口(辰
  ノ口)ハ鬼怒川ノ水面、飯沼ヨリ低キコト一丈五分、一月為永小舟ニ乗リ沼中ヲ巡覧シ里正等ニ謂(イ)ツ
  テ曰ク、此ノ役、功必ラズ成ラント、(以下省略、原漢文)
 
 以上の記事によって飯沼開発の発端と、着手にいたるまでの段階をあらまし知ることができる。
 飯沼開発については既に、茨城県史編さん委員会が公刊した『近世史料Ⅲ飯沼新発記』に史料が収録され、また、多くの歴史家の著書によって委細を知ることができるが、本編では開発の経緯を通して水海道市域の村々(大生郷・同新田・伊左衛門新田・五郎兵衛新田・笹塚新田・横曽根新田・同新田・同古新田)がどのようなかかわりをもったか少し述べてみたい。
 冒頭に引用した『下総国旧事考』によれば、寛文九年(一六六九)、久しく荒れ果てていた飯沼を開墾して耕地をつくることを目ろみ、沼周辺の村二三か村(のち二四か村)の人びとが相談してこれを幕府に願いでた。これに対し幕府はその願意を採用し、勘定奉行妻木彦右衛門等を派遣して現地見分をしたが、あまりにも広大な面積と水量のためにこの時は具体的進展はみられなかった。
 

享保8年ごろの飯沼(『飯沼新発記』より)

 その後約三〇年、飯沼周辺の村々では以前にもまして開発熱が再燃した。それは他国開発人の願書差し出しもあって請願運動に拍車がかかるところとなったのである。
 宝永三年(一七〇六)六月、沼廻り一九か村の開発再願書が出され(市域では大生郷村のみ)、さらに、享保七年(一七二二)にも願書と村々取極めがなされるに至った。これは、たまたま出府中の尾崎村(八千代町尾崎)名主秋葉左平太(隔代五郎兵衛)が江戸日本橋に幕府が立てた新田開発奨励の高札を見て、早速飯沼周辺の村々に働きかけたものであったが、沼廻り二三か村全部の合意ではなかった。それは、飯沼開発の当面の課題として沼の排水(悪水)をどこに落とすかという問題で利害が対立し、沼末端の横曽根村、同新田(のちの古新田)、大口村の三か村は既存の「古堀浚立て」による工法を主張したため取替証文には連印しなかったことによる。そして、この「古堀」派と新規に堀割を主張する「新堀願い」派の抗争はその後享保九年(一七二四)五月、幕府案の新堀開削による干拓の決定まで続くことになった。
 
新田地の本村高及び配分反別
村 名本 村 高配分反別
石   町 畝 歩
大口村366.056 77.62.00
猫実村465.087.585.09.00
神田山村616.203 108.48.10
幸田村618.983 130.13.20
馬立村540.720 90.70.20
弓田村919.627.5119.35.15
沓掛村1416.016 156.84.28
生子村200.000 65.15.25
山 村615.486 96.41.17
逆井村689.922 102.07.00
東山田村832.032 112.78.10
仁連町564.450 92.56.00
恩名村516.904 88.92.28
平塚村924.542 119.74.06
芦ヶ谷村812.614 111.27.10
崎房村911.780 118.74.15
尾崎村223.429 66.83.00
栗山村362.088 77.31.20
馬場村63.300 54.77.20
鴻野山村512.192 88.63.15
古間木村512.720 88.63.15
大生郷村1067.025 151.01.15
横曽根村1343.882 151.34.00
同所新田809.384 111.09.00
割残地17.00.00
合 計15904.443 2482.55.19


 
 幕府は享保八年二月代官松平九郎左衛門及び勘定役岡田新蔵に飯沼の実地調査を命じ、さらに紀州流土木工法の祖といわれた幕府勘定所の井沢弥惣兵衛為永に飯沼周辺の実情を視察させ、その報告に基づき同九年五月にいたり、はじめて飯沼開発の許可を与えることになった。この工事は為永がその指導監督にあたり、同年八月まず尾崎村の左平太(秋葉)、馬場村の源次郎(同姓)、崎房村の孫兵衛(同姓)、大生郷村の伊左衛門(坂野)を飯沼開発の頭取に任じ、その翌年、すなわち享保一〇年(一七二五)一月一〇日をもって工事に着手することになった。これについては『飯沼新発記』に、
 
   正月十日、新堀筋高場御普請所御鍬初に付き、井沢弥惣兵衛様並びに御普請御役人衆中、沼廻り弐拾四
  ケ村村名主組頭残らず立会い御普請相初まり候。
 
 とあるように、新堀反対派の横曽根村、同新田、大口村の名主たちも参加し、起工式は相当盛大に行われた。
 やがて為永の計画どおり工事がはじめられるや、まず飯沼の水を排出するため馬立村(現、岩井市)、神田山村(同上)、幸田村(同上)の地に新しく堀割をつくり、その堀を通して利根川に流すことにした。この堀割の延長は五八〇〇間(約一〇キロメートル)であったが、それでもなお充分に排水できないでさらに沼中央に中堀(なかぼり)(飯沼川)を開削し、幸田村で当初の水路とつなぎ、その水を菅生沼に導いて利根川に落とすことにした。この二つの工事についやした費用は七八〇〇両であったという。こうして最初の工事はその年(享保一〇年)の五月一日に完了したというから、かなりの突貫工事であった。『飯沼新発記』はそのときのことを次のように述べている。
 
   水抜き新堀御普請段々出来、五月朔日壱番〆切、切払い、水相通じ申し候。当日沼廻り村々残らず罷り
  出で申し候。弥惣兵衛様並びに御普請方御役人中御立会いこれあり候。水行殊の外宜しく、差支え候儀こ
  れなく候に付き、沼廻り一円に安堵いたし、有がたく存じ候。早速沼水干落(ひおち)申すべき様子にこれ
  あり候。
 
享保12,13年総検地,飯沼新田分各村 石高
村 名村 高明治1年村高
石  石  
仁連町163.533209.249
東山田村441.950585.499
逆井村709.861856.423
山 村622.922691.453
生子村504.363641.994
沓掛村694.573883.011
弓田村299.431322.558
大浜新田484.353453.017
平八新田550.402553.134
勘助新田808.650816.255
幸田村471.382486.235
馬立村524.131541.158
神田山村896.670905.777
猫実村537.592537.592
大口村402.438415.396
庄右衛門新田459.481459.486
笹塚新田304.507304.507
横曽根村504.133504.133
五郎兵衛新田408.218408.133
伊左衛門新田565.631585.939
大生郷村170.845259.408
古間木村136.297183.217
鴻野山村75.705109.845
馬場村202.896211.308
栗山村190.488204.286
佐平太新田280.811287.699
孫兵衛新田534.566548.801
芦ヶ谷村610.453622.607
平塚村831.931831.937
長左衛門新田592.645710.223
恩名村492.224494.508
寛保3年飯沼見廻役御用留書帳より作成忍田家文書
『飯沼新田開発』長命豊著


 
 これによっていかに沼廻り各村の人びとが、飯沼開発に期待をかけ、しかもその工事が成功したことによって、はじめて安堵したという状況がうかがい知れる。
 しかし、工事はそれだけでは終わらなかった。飯沼を挾んで東西の台地から流入する自然水は、大雨の降るたびに干上地に溜水し、完全に水田として生まれかわることができなかった。そのため中堀(飯沼川)の改修工事にあわせて、台地縁辺部に東・西仁連川を新たに掘削し、排水する難工事にとりかかった。こうして飯沼開発工事が完成したのは、着工から歳月を経ること三年あまりの享保一三年(一七二八)三月であった。その結果得たものは水田一八九六町四畝二四歩(約一万八八〇三平方メートル)、石高にして一万四三八三石八斗九升で、当時の新田開発事業としては大規模なものであった。しかしこの間、古堀派三か村のうち、横曽根新田(のちの古新田)だけは「御新田望無之」として享保一〇年五月、役人池田喜八郎へ開発を断念する旨願い出た。同新田の割当地は「取上地」となり、田畑はその後尾崎村秋葉五郎兵衛が買い請けするが(五郎兵衛新田)、その後五郎兵衛も崎房村三太夫の口入れで一村そのまま大口村彦兵衛へ売り渡したことが『飯沼新発記』にみえ、新田村成立の複雑な事情を物語っている。この開発によって市域では、大生郷村、横曽根村のごとき村請新田の他に五郎兵衛新田、伊左衛門新田(開発頭取人坂野伊左衛門)のような個人請新田が誕生した。
 以上のように飯沼新田開発事業には、巨額の費用と多数の人力を要し、一応は成功を収めたかに見えたが、その後一〇〇年を出ずして、享保のむかし秋葉左平太をはじめ多くの人びとが、後世に残すべき事業として心血をそそいだのにかかわらず、再び荒廃の道をたどるにいたった。その原因は飯沼の集水面積が極めて広く、そのうえ唯一の排水口をもつ利根川の河床が年々高くなり、夏期増水の場合は河水が逆流してかえって沼の水を停滞させ、さらに地形の複雑さがこれに加わり、耕地の管理も充分に行われなかったことなどが挙げられる。