農業技術の発達

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農耕文化が我が国に移入されたのは弥生時代といわれている。それ以降数千年の間農耕に関する技術や農業経営に関する面においてもしだいに改善が加えられたことは、古代農耕に関する考古学的さまざまな研究によって充分これを立証することができる。ことに稲作文化がすすみ、稲作によって生産される米が国家の経済を支えるようになった。大和朝廷成立以後は、その生産と、その増産に対する関心はいよいよたかまり、耕地整理、用水確保、新田開発等あらゆる努力をはらってその推進をはかった。
 中世末期、戦国時代にいたるや、武田、上杉、北條、織田、朝倉などの各分国領主は一段と領国内における農村の振興をはかり、農業生産の向上につとめ、それをもって直ちに戦力に結びつける方策をとった。いま、かつての有力な戦国大名が農業政策の一環として施設したと伝えられる遺跡が、各地方にのこっていることによっても、それを知ることができよう。例えば武田信玄が甲州釜無川の氾濫を防ぐために築いたといわれる信玄堤、また、小田原北條氏が同じ目的で武州荒川に堤防を築いたといわれる熊谷堤などは、その顕著なものとしていまなお伝承されている。当時、こうした農業構造改善事業ともいうべき施策とともに、農業技術の面でもまた改良が加えられたことは、いま、史料的にこれを立証することは困難ではあるが、漸次進歩の道をたどりつつあったことは疑いないものといえよう。
 やがて元和偃武(えんぶ)、天下は泰平となり、米の経済性はますますたかまり、政治、経済の基盤はまったく米に依存するいわゆる「米遣(つか)い」の経済時代となった江戸時代になると、その生産に対する技術は、増産を目的として大いに研究されるようになった。その結果、農業技術や農業経営に関する著作が、各地方の篤学者や篤農家によって次から次へと刊行され、江戸時代の農事関係書で現在復刻されているものだけでも、実に五〇種類以上に及んでいる。その中でも特に農業技術の開発や農業経営に関し、大きく寄与したと思われるものは次の諸書であろう。
 
   書名 成立期 著者名
  清良記寛永五年(一六二八)土居 水也
  会津農書貞享元年(一六八四)佐瀬 与次衛門
  農業全書元禄一〇年(一六九七)宮崎 安貞
  地方の聞書元禄年間 大畑 才蔵
  耕稼春秋宝永四年(一七〇七)土屋 又三郎
  農具便利論文化二年(一八一七)大蔵 永常
  草木六部耕種法天保二年(一八三一)佐藤 信淵


 
 これらの著書は当時文盲の多かった一般農民が直接手にすることはなかったと思うが、村の指導的地位にあった人びとは、これらの書物を読み又は伝聞して得た知識によって、一般農民の啓蒙をはかったことであろう。したがって農業技術の発達、農業経営の合理化などは不知不識の間に一般農民の間に浸透し、そのため江戸時代の農業は急速な発展を見るにいたった。
 農業技術の発達はそれと相俟って農業生産の増大をもたらした。しかし、農業生産は増大したが、それによってかならずしも農村の振興とはむすびつかず、農村は依然として支配階級の搾取の対象となり、農民生活そのものをゆたかにすることはできなかったが、それにしてもこれによって大きく農村の経済構造をかえたことは否定できない。
 殊に水海道方面において農業技術の進歩として見のがすことのできないのは干鰯(ほしか)肥料の使用である。江戸時代もその中期以前は農業用肥料として使用したものは主として厩肥、堆肥、人糞、芝草などであった。しかるに干鰯が上総国九十九里浜で生産されるようになってからは、農家でもその効果のあることを知り、さかんにこれを使用するようになった。しかし、それだからといって従来の肥料を全然使用しなくなったわけではなく、やはり干鰯を購入することのできない農家では、依然従来の肥料を使用していたのであるが、少なくとも干鰯の使用によって生産性が高まったことは事実である。
 水海道方面がなにゆえに干鰯肥料を早い時期に使用するようになったか、それはもちろん利根川、鬼怒川の二つの水系による水運がもたらしたものである。水海道方面は生産地たる九十九里浜の北端銚子川口より利根川を遡行し、鬼怒川に入ればその距離わずか指呼の間にある。この地の利を得たる商圏を当時の肥料商たちは見のがしてはいない。ゆえに既に元禄年間この水運を利用して干鰯肥料取扱いの問屋を設けようとして、その取立願いを幕府に提出している。それに関する史料が、現在の守谷町大字野木崎椎名半之助家に残っている(『茨城県史料 近世社会経済編I』所収)