元来、江戸時代の農産は年貢の対象となる米、麦など穀類が主なものであった。もっとも江戸、京都、大阪のように純然たる消費都市の近郊農村では、それらの都市住民に供給するため、蔬菜、果樹の栽培もさかんに行われていたが、地方の農村においては蔬菜、果樹などはわずかに自家用に供する程度のものであった。ところが前述のような事情で生じた余剰労力をどのようにして消化すべきか、農民たちの模索がつづけられた。
江戸の中期以降、農村にはこのように余剰労力が生じたので、領主によってはその労働力を独自の殖産政策にとりいれ、その地方の地場産業にまで発展させたところもあった。例えば徳島藩の藍玉、宇和島藩の和紙、米沢藩の漆、鳥取、長州、熊本、福岡各藩の蠟など、その他各地方に独特の産業が行われていたことは敢て贅言を要しない。しかし、それらの産業はいずれも一藩支配の下で、強力にその方針を推進することのできる地方にかぎられ、水海道市域のように細分された領主による分郷支配の地方においては、こうしたことは望むべくもなかった。
いま水海道市域の地勢を見るに、東には小貝川が、また、ほぼ中央には鬼怒川が、いずれも北から南に向かって流れ、鬼怒川と小貝川の間は一面広袤(ぼう)たる水田地帯をつくり、鬼怒川の西はおおむね台地の畑作地帯であり、その間、水田に適す低地が散在している。いまこれを水海道市域全体として見れば、鬼怒川以東の地域に属する旧水海道、旧五箇、旧三妻、旧大生の各町村における耕地の割合は、
田 八、五九〇・四一二平方メートル
畑 一〇、六一一・五六九平方メートル
また、以西の旧菅原、旧大花羽、旧豊岡、旧菅生、旧内守谷、旧坂手の各村は
田 八、五四九・七五一平方メートル
畑 一六、〇一七・五一九平方メートル
この合計
田 一七、一四〇・一六三平方メトール
畑 二六、六二九・〇八八平方メートル
となる(1)。
さて、右の数字によってもわかるように、水海道市域の耕地は田に比べて畑がはるかに多く、したがって稲作農業から畑作農業に転換することは容易であった。そこで前述のような事情で生じた余剰労力は挙げて畑作農業に切りかえられ、茶、莨(たばこ)、稗、粟をはじめ、蕎麦(そば)、大豆、小豆、甘藷、馬鈴薯、里芋、午蒡(ごぼう)など各種類の農産物がつくられるようになった。そのなかでも茶と莨は菅生、内守谷地区で多く栽培され、猿島茶、猿島莨の銘柄をもって後世にいたるまで名声を高めた。その他藍玉(あいだま)、胡麻(ごま)、綿、油菜なども多量に生産され、いずれもこれを市場へ出して商品化したのである。なお、莨の栽培はこの地方ではかなり古くから行われていたらしいが、それがいつのころか栽培が禁止されていたのを、元禄一五年(一七〇二)一二月にいたり、その禁止令が解かれたと富村登氏著『常総文化史年表』に見えている。また、茶についても古くから栽培されていたが、特に天保五年(一八三四)以来、猿島郡辺田村(現、岩井市)の中山元成(号茶顚)が猿島茶の育成につとめ、その栽培を奨励し、地場産業にまで発展させたため、菅生、内守谷方面では大いにその影響をうけたであろう。