農業生産物の商品化によって貨幣が農村に流通し、農村が商業地化したことは江戸中期以後各地に見られた経済的現象である。殊に水海道市域のごとく、その中心に旧水海道村のように村全体が商業集落として発展した市場をもっていたところでは、特にその傾向はいちじるしかった。こうして市場を仲介とした商品流通がさかんに行われると、必然的に貨幣経済が浸透し、その貨幣を蓄積した者と蓄積しない者、また、商品市場で儲(もう)けた者と損をした者との間に経済的格差が生じ、それがやがて階層分化をもたらして農村構造を変えることになった。
江戸時代、支配階級は農村から年貢を効率的に徴収するため、農民の細分化は極力これを防ぐことにつとめ、既に寛永二〇年(一六四三)三月、田畑の永代売買を禁止する法令を定めた。それによると、田畑を売った者は入牢の上追放、本人が死んだときはその子も同罪、田畑を買った者は入牢、本人が死んだときはその子も同罪、そして買った田畑は売主を支配する代官、又は領主がこれを没収する、というような極めて厳しいものであった。このように田畑の売買はかたく禁じられていたが、江戸の中期以降は都市農村を問わず貨幣経済がいよいよ浸透し、既に「米遣い」の経済より「金遣い」の経済へと移行する様相をしめしてきたので、貨幣はやはり農民生活の上に欠くことのできないものとなった。それで農村では換金性をもつ農産物の生産が増大し、同時に貨幣の流通がさかんになると、貨幣がすべてを解決するというような意識をいだくようになった。そうなると貨幣に窮した農民はその窮状から脱するため、先祖から伝えられてきた田畑を売って金に替えようとするが、それは法令によって堅く禁じられているので公然これを売買することができないため、田畑を質に入れるという形式で金を借り、そのまま質流れとして貸主に譲渡する方法をとった。それについては次のような史料がある。
質地証文の事
一、下田七畝弐歩 字沖耕地
此の質代金壱両弐分也
右は御年貢要用の儀に差詰り、書面の地所当辰より来る申まで中三ケ年の質地に相渡し、代金慥かに受取
り申すところ実証なり。然る上は来る巳より御年貢諸役とも貴殿方にて御勤め御所持なさるべく候。年季
右金返済仕り候はば地所御返し下さる筈、其の節請け戻し相成り兼ね候はば、此の証文を以って何年にて
も御所持成さるべく候。右地所の儀五人組一同相談の上相渡し候上は、脇より〓乱申す者毛頭御座なく候。
後日のため証文よってくだんの如し。
天保三辰年十二月
三坂新田
地主 市兵衛
証人 嘉右衛門
太郎右衛門殿
担保物件を抵当にして金を借りる慣行は、既に中世期ごろから行われ、殊にその末期、先進圏である近畿地方には、土倉と称する金融業者すら発生するにいたった。それが江戸時代にいたり貨幣経済が発達して金融がさかんになれば、それを営業とするものの出現は当然のことである。しかし、それが営業として成立したのはそれほど古いことではない。
ここに「下総国岡田郡大輪村跡三拾七ケ村組合質渡世名前書上帳」というのがある。その内容は、
御糺(ただ)しにつき書き上げ奉り候書付
土井鏈之助知行
下総国岡田郡
大輪村
名主 角右衛門
与頭 弥五左衛門
百姓代 佐左衛門
百姓 市左衛門
文政十亥年書上候分
一、質屋渡世
猿島郡岩井町与左衛門方へ送り質仕り候。当時相止め申し候分、是は文政十亥年中御改革御調べの節、
弐ケ年平均質取り高書上げ候分
八ケ年以前夘年より
一、質屋渡世 与頭 三左衛門
九ケ年以前寅年より
一、質屋渡世 与頭 源左衛門
是は去る亥年御調べ以後渡世のものへ申し談じ候ところ、故障の筋これなきにつき、村役人へ申し出、新
規質屋相始め候分。
右は農間質屋渡世仕り候もの私共のほか壱人も御座なく候。以上。
天保九戌年八月
土井鏈之助知行所
百姓代 佐左衛門
与頭 弥五左衛門
花島村
小組惣代 伊兵衛
羽生村
小組惣代 伝兵衛
関東御取締
御出役中様
この史料は下総国岡田郡大輪村における質屋渡世を営むものの書上げであるが、質屋渡世はそれより以前から全国各地に発生した。江戸時代の質屋は中世期の土倉とはその営業方針を異にし、農村では専ら零細農民を対象とした金融業者である。したがって零細農民が金銭を借りる場合、担保として提供する物件は日常使用する衣類か又は器具類で、それほど価値のあるものではなかったらしい。しかし、幕府はこの質屋に対しては相当厳しい規制を設け、文政一〇年(一八二七)の改革には業者を廃業にまで追いこんだ事例もあった。
これとは別に、貨幣の価値が一般に重んぜられ、農村においても先に述べたように貨幣がすべてを解決するという風潮がたかまると、田畑を持っている農民は安易にそれを入質して貨幣を得ることにしたが、その場合大概の者は質屋を利用せず、質屋以外の分限者(ぶげんしゃ)から融資をうけたものである。先に引用した質地証文などはその類といえよう。田畑を質に入れ、質屋以外の者から金を借りる慣行は、いつごろから起こったか明らかではないが、少なくとも元禄期以前において、そうしたことは行われていたものと推測される。
さて、それはしばらく措き、農業生産物が商品経済の対象となり、それにともなって貨幣が商品を媒介にして活発に流通することにより、ある者はその潮流に乗じて財を成し、また、ある者はその峡(はざま)に落ちて産を失うものもあった。だが、貨幣経済の発達はこうしたなかにあっても止むことを知らず、産を失った者が貨幣を必要とするときは、一時の急をしのぐため財を成した者から田畑を抵当に金を借りる。しかし、その金は返済できず田畑は質流れとなって貸主の所有になる。このようなことは享保年間(一七一六―三五)以降、全国的な傾向として地方農村にあらわれ、そのためさきに幕府が出した田畑永代売買禁止令は、まったく実質のともなわない無名のものになったので、その後延享元年(一七四四)六月にいたり、田畑永代売買禁止令は大幅に改正され、
――元来所持の田畑に放れ申したき者はこれなく候へども、年貢等不納に致し、よんどころなき儀にて
御停止を忘却いたしたる事に候。然らば向後所払には及ばず、過科は申しつくべき歟。(以下略)(『徳
川禁令考後集二』)
というにとどまり、寛永二〇年の禁令は事実上廃止になったようなものである。いま水海道市域に残っている史料のうち、質地に関する書類が多く見られるのは、その間の消息を明らかにしたものといえよう。
近世農村には、中世期その地方の土豪としてもともと広大な土地をもっていた者と、それに従属していた有力農民が、社会変換の時期にそれぞれ土着して農村に君臨したいわゆる在来地主があり、それに対してようやく自作農地を得て自作経営をなす農民と、地主に隷属して生活を支える程度の零細農民がいた。それらの農民はいずれも村落共同体のなかにつつみこまれ、ほとんど変化なき農村構成を保っていたが、社会の進展にしたがってさかんになる貨幣経済の中ではそれがゆるされず、自然にその体質もくずれて大きく農村自体の構造をかえることになった。すなわち財貨の蓄積によって農村における商業資本家的要素をもった者が、前述のように田畑を抵当に融資を行い、返金不能になればそれを収奪して自分の所有に帰し、新興地主となって在来地主に相対するまでにいたり、しかもそれら新興地主のなかには、さらに資本の蓄積をはかるため、本来の農業のかたわら商業を営む者も出てきた。これを農間余業という。この農間余業は農村の秩序をみだすものとして、幕府はこれに掣肘を加えるべく、しばしば取り締まることにしたが、時勢のおもむくところ、その取締りも徹底せず、ついにこれを黙認することになったので、農間余業は半ば公然たる存在になったが、幕府としては常にこれを監視することを怠らなかった。ここに文政一〇年(一八二七)九月、関東取締出役が大輪村の村役人に命じて調査させた「農間商い渡世の者名前取調書付」という史料がある。
覚
高千弐拾六石九斗八升
一、反別百弐拾町六反壱畝六歩 田口五郎左衛門御代官所
土井鏈之允知行所
下総国岡田郡大輪村
此家数九拾弐軒 江戸へ拾六里
人別四百四拾三人 但、五海道筋脇往還并に人足立場にて御座なく候
家数八拾四軒 農業一統渡世の分
内
家数八軒 農間商い渡世の分
内
拾壱ケ年以前文化拾四年より渡世仕り候
一 居酒屋渡世 茂左衛門
拾ケ年以前文化十五年より渡世仕り候
一 居酒屋渡世 庄兵衛
四拾五ケ年以前天明三年より渡世仕り候
一 居酒屋渡世 惣兵衛
拾五ケ年以前享和(文化か)十年より渡世仕り候
一 居酒屋渡世 源右衛門
四拾ケ年以前天明八年より渡世仕り候
一、居酒屋渡世 善兵衛
弐拾三ケ年以前文化弐年より渡世仕り候
一、居酒屋渡世 九右衛門
弐拾弐ケ年以前文化三年より渡世仕り候
一、居酒屋渡世 孝蔵
拾ケ年以前文化十五年より渡世仕り候
一、居酒屋渡世 久弥
〆 八人
一、大小拵研屋渡世の者 御座なく候
一、髪結渡世の者 御座なく候
一、湯屋渡世の者 御座なく候
一、煮売渡世の者 御座なく候
一、腰物売買渡世の者 御座なく候
右の通り相違御座なく候。以上。
文政十亥年九月
右村
百姓代 角右衛門 印
与頭 忠左衛門 印
名主 安左衛門 印
名主 清左衛門 印
関東筋御取締御出役
山田茂左衛門様御手附
武藤僖左衛門殿
楳本兵五郎様御手代
森東平殿
御同人様御手附
松村小三郎殿
この史料も幕府が農間余業を監視するためその業態を把握するのが目的であった。また、この史料によれば農間余業はいずれも居酒屋となっているが、その実態は必ずしも居酒屋が専業でなく、昭和初期ごろまでよく農村で見かけた「なんでも屋」、つまり現代のスーパーマーケットを小規模にしたような形態であった。元来、酒は嗜好飲料としてその醸造は公然と認められていたから、それを販売することもゆるされていた。そこで商人は酒の販売を名目に、これに便乗してその他の商品も販売したのである。
大輪村の場合、戸数九二戸、人口四四三人、その内に居酒屋が八軒もあった。もっともその八軒はいずれも農業を主体にしていたのであろうから、居酒屋としての営業成績などは余り重視しなかったであろう。それにしても約五五人に一軒の割で商家があったのだから、大輪村民の個々の経済は相当豊かであったことが想像される。
以上述べたように貨幣経済の発達は新興地主を生み、また、農業と本質を異にする商業がおこり、複雑な要素をはらんで農村社会は展開した。この時期、水海道市域のように商業集落を近くにもった農村では、その影響を著しくうけた。
また、農村がこのように複雑化して来るとその間に自ら新しい階層や新しい意識が生れ、在来の既成構造が否定される場合も生じた。その顕著な例が村役人層の交替というかたちであらわれたのである。江戸時代初期の村役人はおおむね在来有力農民の世襲であったが、それが中期以降になるとその世襲制がくずれ、新興有力農民がそれに代わって村役人の地位につく者が多くなった。それがため村揉(も)めや、さらに村方騒動にまで発展する例もあった。
註
(1) この数字は昭和初期(年度不詳)の調査によるものである。できれば明治以降、年次的に調査した資
料を採るべきであるが、現在、その資料が欠けているので止む得ずこの資料だけを採用した。それにつ
き一言加えることは、水海道市域の農業構造は、江戸時代以降、昭和初期までの間、著しく変化した事
例もなかったものと判断したからである。
なお、この数字には旧真瀬村の一部水海道市に編入した東町の分と、谷和原村川又町の境界変更による
地域の耕地は含まれていない。