慶長九年(一六〇四)八月、幕府は東海道、中山道、甲州道中、日光道中、奥州道中の五街道を設けて宿駅を整備し、主として公用のために旅行する者の便をはかった。また、それと同時に商人や一般旅行者のために脇街道の整備も行い、大いに交通の便をはかることにした。脇街道とはまたの名を脇往還ともいい、五街道のような幹線道路とは別にそれに沿った小街道、例えば東海道に沿った大山街道、甲州道中に沿った青梅街道などがそれで、幹線道路から幹線道路への連絡路としても設けられた。
現在、下館市から下妻市、石下町、水海道市、守谷町、取手市を経て利根町にいたり、利根川を渡って我孫子市、印西町、下総町、佐原市、小貝川町、東庄町を経て銚子市にいたる道路は江戸時代これを銚子街道と称した。銚子街道は守谷から菅生を経て岩井へぬける間道(守谷街道)をさす場合もあり、さらに境、関宿城下へ達する街道を呼ぶこともあるから、それぞれの時代の交通網の変化によって呼称も範囲も変わったものと解される。
いずれにしても水海道の場合、鬼怒小貝の河川に沿った脇街道であり、これは日光街道と水戸街道の二つの幹線に挾まれた脇往還であった。水戸道中は、日光街道の千住(現、足立区千住四丁目)より分かれて新宿(にいじゅく)(葛飾区)、松戸、小金、我孫子、取手、藤代、若柴、牛久を経て水戸にいたるが、小金から布施(柏市)、戸頭(取手市)へ通じる脇街道は、水海道までの旅行者に利用され、また、笠間より現在の八郷町、千代田村、新治村、谷田部町、伊奈村を経て守谷町で銚子街道に合流する笠間街道、さらに日光道中の千住(現、足立区足立四丁目)から分かれ足立区内を過ぎ、埼玉県草加市、春日部市、千葉県関宿町、茨城県境町を経て下妻市にいたる下妻街道などがあり、それらはいずれも脇街道として利用されたものである。特に現在の国道二九四号にあたる銚子街道は下妻街道(往還)とも呼ばれ、旧水海道村が在郷における商業集落として発展を遂げる過程において、実に鬼怒川の水運とともにその重要な役割を果たした。