六斎市

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市場は、また単に市(いち)ともいい、物資の交換取引を行う場所のことである。水海道村に市が開かれたのはいつごろのことであるか、それについては確実な史料がないが、天正期の北下総の戦況を伝える北條氏政文書に「横曽禰之市」と見え、既に中世末期のころ水海道村の対岸の横曽根村では市が開かれたことが推測できる。その市はおそらくこの時代各地で開かれていた市場祭文(いちばさいもん)ではないかと思われ、市場の守護神とあがめられている市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)をまつり、その神前で市を開くのであるが、そのとき修験者が祭文を読み、また、猿楽などの芸能を演じて人びとを集め、市の活気を盛りあげたという。いま水海道市域でこれに関する史料は見られないが『武州文書』によれば、現在の埼玉県三郷市にある彦名、花和田、現、吉川町及び現、八潮市にある八條にもそれぞれ市場祭文が開かれた記載があるから、地理的に見て余り離れてもいない下総の横曽根に開かれた市も、またその類ではないかと推測される。
 伝えられるように江戸時代以前、横曽根において市が開かれていたとすれば、水海道村にはその土壌が既にそのころから培われていたものと解すべきで、それが寛永末期ごろにいたり形態を改めて新たにこの地に市が開かれたといっても、それは決して偶然なことではないと思われる。市場は毎月一日、六日、一一日、一六日、二一日、二六日、つまり一の日と六の日の六日間と日を定め、これを六斎市と名づけて市の守護神を愛宕神社にうつして開くことにした。そして開いた場所は一日と一六日は上宿、六日と二一日は中宿、一一日と二六日は新町であった。ここでいう上宿とは現在の豊水橋のあたりから橋本町界隈(かいわい)のことであり、中宿とは豊水橋から南、坂道を下って丁字路あたりまでの間、新町とはその丁字路からさらに南に向かい報国寺下までの間で、その開市の日に取扱う主な商品は木綿、農具、紙、莨、その他雑貨類であった。ところがこの六斎市も上宿住民が鬼怒川の川欠を理由に宝洞宿(宝町)、横町(栄町)へ移住することによって市場も村も互いに発展することとなった。