水海道市場屋敷図(・印市場定杭)
ここに享保七年(一七二二)一〇月、水海道市場出入一件と名づけた一点の史料がある。それは水海道村名主権之丞、同新右衛門、同佐右衛門の三名が連名で領主日下鉄五郎に訴えた事件である。その訴えの内容は、
「穀物等猥(みだ)りに売買致し候ひては市場まとひ申さず候に付き、内談仕り、得心の上穀物売買当市場
限り致し□□、市場出入口論等もこれなき様取り斗(はから)い申すべき由願い出で候云々」
といって、穀物売買については市場運営上支障があるからといって、談合の上これを止めさせることにした。
しかるにまた、
「去る八月中、間もなく甚右衛門方にて穀物売買の儀に付き、六敷儀これある由市場の者共より申し出で
候に付き、吟味も仕るべき処、大勢の者に相手致され、強勢なる仕方も御座候て驚き入り候哉、右
甚右衛門儀当村成就院へ入寺仕り云々」
とあって、甚右衛門は先の申合せを守らず八月の市日に穀物を売買していたことが市場関係者からの申し出があったので、大勢押しかけて吟味にかけようとしたら、甚右衛門はその勢いに驚き、成就院へ逃げこんでしまった。その後、甚右衛門にはほかにも問題があり、われわれでは始末をつけかねるから、ご領主様のお手を煩わしたいといって訴えであった。
市場の統制はたびたび新興商人との摩擦によって崩れ、明和・安永期(一七六四~八〇)に名主から地頭役所に提出された出入文書にも、「近年市場猥(みだり)罷成」、「市場思々所々罷(まかり)在」という文字が何度も発見される。このように六斎市は幕末に至って漸次衰退し、水海道村に常住商人を定着させることによって自然消滅したと考えられる。しかし、それに代わって新しい活気に満ちた商業地区を形成させ、物資の集散地の機能を確保するとともに文化伝播の特質をつくるにいたった。