市街地の形成

493 ~ 495 / 517ページ
享保年間の「市場出入文書」に見られるように、江戸時代初期(寛永期)の水海道村は居屋敷が上宿・中宿・新町と南北一続きに連なる寒村に過ぎなかった。しかし、河岸の発達と六斎市による商業の拡大は、宝洞宿(現宝町)という新開地を生み人口を飛躍的に増大させ宿場街を形成するに至った。これらを年次的にみていくと、まず、貞享四年(一六八七)には一〇九三人(切支丹宗門改)だった人口が、元禄一六年(一七〇三)には一四一五と漸増し、また、六斎市が最も繁栄を極めた元文期(一八世紀中ごろ)には二〇〇〇人弱と急激な増加を示している。さらに、安政二年(一八五五)の「村書上」では二七六九人、明治二年(一八六九)の「村明細」では、戸数六九三、人口三三〇七を数え、常総地方有数の宿場町に成長している。
 これらの人口増加は明らかに社会経済的要因によって引き起こされたもので、周辺農村からの出稼等の人口流入と考えられる。例えば、嘉永五年(一八五二)、地頭日下(くさか)配下(名主権左衛門組下)の人別送り状による出身地別内訳にも端的に顕われている。借宅地人一六六戸の中で村内移転者四五、水海道村周辺の豊田、岡田、猿島、相馬、筑波郡内からの移住者六八、真壁、新治、水戸などの常陸国から一五、また、遠国からの移住者として江戸二、近江三、上野一、武蔵四、下野一を数えている。このように水海道村が江戸時代後期、にわかに都市的様相を呈するに至った背景にはそれを培養する社会経済的要因があったことを裏づけるもので、一つには水海道をとりまく経済的諸条件として例えば筑波郡南部の豊饒な穀倉地帯、また、猿島、岡田台地の畑作を中心とする地場産業の伸展などが大きな影響を与えたものと考えられる。
 

水海道村絵図