これらの人口増加は明らかに社会経済的要因によって引き起こされたもので、周辺農村からの出稼等の人口流入と考えられる。例えば、嘉永五年(一八五二)、地頭日下(くさか)配下(名主権左衛門組下)の人別送り状による出身地別内訳にも端的に顕われている。借宅地人一六六戸の中で村内移転者四五、水海道村周辺の豊田、岡田、猿島、相馬、筑波郡内からの移住者六八、真壁、新治、水戸などの常陸国から一五、また、遠国からの移住者として江戸二、近江三、上野一、武蔵四、下野一を数えている。このように水海道村が江戸時代後期、にわかに都市的様相を呈するに至った背景にはそれを培養する社会経済的要因があったことを裏づけるもので、一つには水海道をとりまく経済的諸条件として例えば筑波郡南部の豊饒な穀倉地帯、また、猿島、岡田台地の畑作を中心とする地場産業の伸展などが大きな影響を与えたものと考えられる。
水海道村絵図