水運と文化の導入

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五代将軍綱吉大いに学問を奨励し、殊に儒学に重きを置き、文禄四年(一六九一)聖堂を上野忍ケ岡より本郷湯島にうつし、その附属教場として昌平黌を建て、これを林大学頭(鵞峯)に主宰させ、旗本の子弟はもとより陪臣、浪人の子弟といえども志ある者には入学を許してその興隆をはかった。それによって文教はあまねく都鄙にゆきわたり、いわゆる文芸復興という華やかな時代を迎えることになった。
 旧水海道村はそのころ農村から脱皮してようやく商業集落の道をたどりつつあった。しかも鬼怒川水運によって江戸の文化が直接水海道へ移入されるようになったので、既に商業基盤を築いた商人や、その商人を支えてきた在方豪農たちもおのずから社会的地位が向上し、経済的にも学問を修得する余裕が生じ、また同時に商家では家業を管理経営する上においても、学問を修めなければならない境遇におかれたため、好むと好まざるとによらず、学問に志すことを余儀なくされたのである。
 こうして北総辺陬(へんすう)の地たる水海道村にも、ようやく文化の華が咲きはじめるや、この地が利根川水系の河津として発達するとともに、同一水系につながる各地の文化が翕(きう)然として移入され、ここに水海道独自の文化圏を形成するにいたった。