庶民教育と寺子屋

499 ~ 501 / 517ページ
江戸時代以前、学問を学ぶ者はごく一部の貴族か上層の武士階級にかぎられていた。したがって江戸時代のはじめころまでは一般の人には学問は用なきものとして満足に文字の読める者は少なかった。
 ところが五代将軍綱吉の文教政策によって、学問を学ぶことが社会的風潮としてひろがりを見せると、学問は独り武士だけではなく農民、町人の間にもそれに志す者が出てきた。
 江戸時代もその中期ごろまでは、文運やや高まりつつあったといっても、まだまだ学問は一般の庶民からは疎外されがちであった。ところが元禄以降になると僅かながらいわゆる寺子屋なるものが江戸に発生し、これがようやく地方にも浸透するようになってきた。その寺子屋も江戸後期の文化、文政のころになると急激に増加し、全国では一万五〇〇〇以上を数えるようになったという。
 寺子屋の教育は庶民が日常生活に必要な最低限のものでいわゆる読み、書き、そろばんが主なものであった。しかし、それも定められた教科書があったわけでもないから、師匠は苗字尽し、江戸方角(地方ではその地方の地名)、請取文、送り状、手紙文、商売往来、消息往来、庭訓(ていきん)往来などの日常用文例や往来物、それに童子教、三字教、実語教などの倫理道徳書をえらび、さらに四書五経の素読などを教えていた。
 江戸時代、水海道市域には数か所の寺子屋があった。そのうち古いものでは天明年間に中村良察という師匠がいた。この良察は相野谷村の出身で天明六年(一七八六)に亡くなっている。それで弟子たちが報恩のため報国寺の境内に謝恩碑を建てたということが、富村登著『常総文化史年表』に載っている。また、報国寺には山崎晋斉という師匠の墓もある。この晋斉の墓は六三名の弟子が建てたもので、墓石の基壇に筆子としてその名が刻まれており、墓の側面には墓碑銘も刻まれているが、石がところどころ風化欠剝して全文を読み取ることはできない。だがわずかに残る文字を読むと、晋斉は元庄内藩士で水海道に居を構え、寺子屋を開いて子弟を薫陶していたが、のち事情があって河内郡(現、稲敷郡)の丸田村(現、不詳)に移りそこで亡くなった。その没年は年号の部分が欠剝して不明であるが、月日は三月一三日となっている。墓石の古さから見て一五〇~一六〇年以前、すなわち文化、文政のころではないかと考えられる。なお、筆子のうちには女の名前も連ねてあったから、そのころ既に女子で手習いをする者も多少いたものと思われる。
 水海道村にはさらに天保初年のころ宝洞宿の敷石横町に塚田万兵衛、号を樅斉という師匠が遊雲堂という寺子屋を開いていた。この遊雲堂は樅斉の子準吉、号を菫庵(とうあん)と称して跡を継ぎ、また、菫庵の子康、号を柳斉と称し、三代にわたり寺子屋を経営して子弟の教育にあたった。なお、この遊雲堂には天保四年(一八三三)から明治六年(一八七三)までの入門者の氏名を記した「筆弟入門帳」が残されている。またさらに旧水海道村にはこのほか天保ごろから宮本朝庵の竜池堂が成就院(現在廃寺)に開かれていた。その朝庵は安政六年(一八五九)一一月亡くなったが、その跡を継ぐ者もなかったので島屋善四郎、鍵屋安兵衛、富村玄仙らが世話人になり、筆子一同から寄附を募って報国寺にその墓を建てた。これらのほかにも成就院下には安政元年(一八五四)から元水戸藩士大高半斉が帷(とばり)を下ろして子弟を教授した。
 以上は水海道村だけのものであるが、在郷近村でも寺子屋を開くものがあった。まず中妻村の若林金吾のごときはそれである。金吾の経歴はよくわからないが中妻町に現存する文政元年(一八一八)筆子一同の建碑によれば「陸奥の最上の人なり」とある。武州の鳩ケ谷三志に師事した人で高田与清の相馬日記にその名が見える。一説では天保一四年(一八四三)一月、二宮尊徳が幕府の命により大生郷村の実態調査に就事したとき、尊徳を補佐してその仕事についていた人物であるという。また、中妻村にはそのころ落合玄仲という師匠がいたらしく、その報恩碑が中妻の霊仙寺門前に建っている。さらにまた、大生郷上口には筆子たちによって建てられた供養塔がありこの類のものは諸処の墓地に見受けられるがいずれも寺子屋にゆかりがあるものであろう。