豊城、はじめ名は周助、のち太右衛門と改め、豊城はその号である。天明元年(一七八一)四月一五日、三坂新田、太右衛門清房の長子として生れた。ちなみに猪瀬氏は代々太右衛門を襲名することを家例としたので、豊城もまたその名を通称とした。長じて水戸藩の儒者立原翠軒(大日本史編纂をめぐって藤田東湖の父、幽谷と対立した学者)に学び、のち江戸に出て亀田鵬斎(主著、論語撮解で有名な江戸後期の学者)に師事し、業成って郷里に帰り、父の職を継いで名主を勤めることになった。豊城一村の長(おさ)となるや、もっぱら厚生民福をはかり、修めた学問を経世の術に応用してその効果を挙げることにつとめた。それとともに豊城はまた一世の碩(せき)学であることが世に知られ、かつて結城藩水野侯、下館藩石川侯に召されてその侍講となったこともあった。前出の若林金吾碑の撰文はこの豊城である。
豊城没年、八二歳、時に文久二年(一八六二)六月一五日であった。
猪瀬豊城