耕雨の伝記については詳しくは伝わっていない。しかし、この地方における篤学者であったことは世評にのぼるところである。
坂野家は代々大生郷村の素封家で、現在その居宅は国の重要文化財に指定されるている。耕雨は寛政一二年(一八〇〇)に生まれ、はじめに江戸神田のお玉ケ池にあった梁川星巌の玉池吟社で学び、のち朝川善庵に就いて経史の学を修め、郷里にかえるやもっぱら家財の蓄積につとめていた。天保一四年(一八四三)一月、二宮尊徳幕命を奉じて北総の地に足を入れ、大生郷村の実状を調べるにあたり、耕雨また尊徳に親灸(しんしゃ)したが、仕法(窮村の復興策)実施の上では尊徳と対立し、このため尊徳は止むなく大生郷村を去ったと伝えられている。耕雨の号はけだし晴耕雨読という造語にちなむものであろう。