宮本蘋香(ひんこう)

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蘋香は水海の恵比寿屋(えびすや)という菓子屋の娘であったが、脚がわるくて歩行も自由でなかった。幼にして頭脳きわめて明敏、はじめ秋場桂園の門に入り、学力大いに進んで天才の名をほしいままにした。明治一〇年(一八七七)一月一八日没。年三二。蘋香については石下町の儒者秋場椅堂にその死を悼む一詩がある。
 この詩の引(詩歌の序文)は蘋香の伝を述べることきわめて詳かであるから左に引用してその人と為りを知ることにしよう。
 
   女史ハ北総水海道駅宮本氏ノ女(むすめ)、名ハ香、痿躄(いけつ)(かっけ病)ニシテ聰、博(ひろ)ク書史
  ニ渉(わた)リ、兼テ文ヲ善(よ)クス、余夙ニ其ノ人ヲ識(し)ル、雁魚往来(手紙のやりとり)殆ンド虚月ナ
  シ、春来其ノ久シク消息ナキヲ恠(あやし)ム、頃者松田秀軒ノ手書ニ接ス、云ウ女史今年一月十八日ヲ以
  ツテ東京ニ客死ス、嗚呼余女史ト自ラ揣(はか)ラズ古人ニ許スト互ニ相激励ス、而シテ今仕シテ異物ト為
  ル、悲シイカナ、女史嘗テ書ヲ若森県令池田氏ニ上(たてまつ)リ菓舗ノ弊害ヲ論ジ物ヲ賜ワリテ之ヲ賞セ
  ラル、乙亥ノ春(明治八年)単行シテ東京ニ遊ビ、謁ヲ甕江川田先生ニ執(と)ル、先生女丈夫ヲ以ッテ許ス、
  女史嘗テ人ニ謂(い)ツテ曰ク、余素(もと)ヨリ情ナキ者ニアラズ、然レドモ眼ニ一丁字モ無キ者、亦焉
  (これ)ヲ見ルヲ欲セズト、常ニ粧飾ヲ喜バズ、断髪布帯、談笑丈夫(男子)ノ如シ、終(つい)ニ嫁セズシテ
  歿ス、年三十二、(原漢文)
 
 以上、猪瀬豊城、秋場桂園、坂野耕雨、宮本蘋香を挙げたがこのほか水海道市域出身の学者には松田秀軒がいる。この松田に関しては資料が乏しいのでしばらくこれを措き、市域外出身者としては弘経寺住職で阿波国出身の梅痴、大和国出身で中妻村に居住していた児玉梅坪、江戸出身で水海道に寓居していた信天恕軒、石下村出身の吉原謙山、江戸出身の菊地三渓、岩井出身の間中雲帆など、いずれも幕末から明治初年にかけ、漢学をもって水海道の文教振興の上に大きく貢献した人びとである。