水海道の医学と洋学

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江戸時代隆富をほこった水海道は文人と医師の多いので有名であった。元禄期から連綿として医事にたずさわったものに松田・富村・中村の三家があり、また秋場可善は紀州華岡家(戯曲「華岡青洲の妻」で知られる)に学びその流れを汲む外科医として世に知られていた。
 このほか、他所からこの地に来て開業する者が多かったのは水海道のもつ豊かな経済力がこの地を医業の適地としたからであろう。
 一方、幕末になると水海道には五木田有積、その長子絹洲、次子の松濤などによって西洋医学の導入もみられるようになった。
 五木田有積は通称七左衛門、寛政八年(一七九六)に生まれ安政二年(一八五五)六〇歳で歿した。家は代々薬種業を営み、かたわら産科を学んで良医となったが洋学にも心を傾け自分の患者のために当年の西洋医術の大家坪井信道あるいは川本幸民、竹内玄同をこの地に招いて、その説を質していることが遺存の書簡等によって知られる。水海道の洋学に先鞭をつけた人といえよう。
 有積の長子に前述のように絹洲がある。啓造と呼んだ。父の医業を継承して蘭法医となったが後江戸の竹内玄同塾に学んだ。その出生は文政五年(一八二二)にあたり、安政三年(一八五六)三五歳で病歿した。
 有積の二男松濤もまた洋医を以て世に立ち家郷で診療に当たった。松濤通称は往之助、天保二年(一八三一)に生まれ、明治二八年自宅で没した。寿六五歳。松濤の活動は明治新政下に及んで医道振興のため大いに尽力するところがあった。
 以上に見るとおり文政六年(一八二三)長崎にシーボルトが教えを垂れてから早くも二〇~三〇年にして水海道にも西洋文化の開花をみるにいたったのである。なお本項については、富村登著『常総の西洋学者』に詳しい所載がある。