水海道は北総における文化の中心地であった。北総の学問はここよりおこり、北総の文芸もまたこの地に根ざした。水海道は商業殷賑の地であり、したがって豪商富家軒をならべてその繁栄をきそった。それらのうちには心を学問に寄せる者もあったろうし、文芸に志す者もあったであろう。そうした人びとによって培われた水海道は、他の地方に比べてはるかに文化的水準が高かった。
ところで江戸時代の学問は漢学が主流であったから、文芸の上でもまたその影響を多分にうけて、漢詩作りがさかんに行われた。こうした風潮に呼応してこの地に来遊しあるいはこの地出身で水海道地方の詩壇に大きな影響を与えた詩客に、藤野秋山、小野湖山、秋葉猗堂、川田甕江、僧梅痴、秋場桂園、坂野耕雨、間中雲帆らがあり、なかんずく秋場桂園の活躍は幕末から明治の中期に至り、地方詩壇の育成に大いに寄与するところがあった。
後のことになるが桂園のあとを受けたものに花島村の渡辺華洲がいる。華洲は明治二六年には絹水吟社を興した。