狂歌

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江戸時代、狂歌がさかんになったのは明和、安永、天明のころからで、そのころには狂歌の三名人といわれた唐衣橘洲、四方赤良、朱楽菅江があらわれ、その門下からは平秩東作、大屋裏住、酒上不埒、手柄岡持、宿屋飯盛などの人物も出た。また、狂歌師とともに戯作者としても知られた太田南畝こと蜀山人もこの時代の人である。当時、こうした人びとの多くは「連」という一種の結社をつくり、大衆文芸として都鄙を問わず大いにその普及発展につとめた。
 水海道には千代徳若という狂歌師が江戸から来て住みついていた。徳若は姓を大西といい、通称は三河屋徳右衛門、号は五万斉といった。徳若が江戸からわざわざ片田舎の水海道にやって来た理由は明らかではないが、水海道が北総における文化の地であることを知り、これにゆかりを求めて来たのではないかと考えられる。徳若の友人である宿屋飯盛は、徳若が文化一三年(一八一六)四月一八日、四五歳で没したとき、
 
  涙をばそそぎつくしぬ極楽へ
       けふ誕生のたび仏には
 
 と、いう追悼の歌を手向けている。
 また、蜀山人も徳若のため
 
  思ひきや千代の徳若五万歳
       十万億土こえんものとは
 
 と、いう弔歌を詠んだ。
 徳若の子に美都徳人がある。徳人もまた狂歌師として父の跡を継いだ。さらに通称鍵屋安兵衛が桃廼屋あるいは金母楼種義と称し、狂歌をもって世に知られた。ここで水海道の人が詠んだ狂歌若干を挙げることにしよう。
 
  大きなるやまを背負ふていつもたつ
       霞男はつよくこそあれ
               金母楼種義
  思ひ草くちてそのままほたる共
       なればうらみの文もよむべく
               米の屋升取
  秋風にちりし柳の一葉舟
       今は氷にみちもたえたり
               亀人
  池水のおのが鏡と藤かつら
       花のすがたをうつしてぞ見る
               梅里