富士講と鈴木頂行

510 ~ 512 / 517ページ
富士講とは山岳信仰の一つで、富士山を信仰の対象として敬仰し、これに参詣する講社のことである。その信者は中下層の商人、職人、農民などが主なもので、講の組織的内容は相互扶助の色彩を多くふくみ、その中には勤労奉仕の精神も織りこまれていた。教義は修験道の影響を多くうけている。
 この富士講のすぐれた指導者に水海道出身の鈴木頂行がいる。頂行は安永九年(一七八〇)、水海道村宝洞宿の商家釜忠に生まれ通称忠八といった。少年のころ既に石田梅岩の提唱した石門心学に心を寄せ、長ずるに及んでその倫理説を信奉し、これを実践に移そうとしていたが、たまたまこのころ武州鳩ケ谷村の人で富士講の高名の行者小谷三志を知り、三志の教義とその人となりに心服して篤信の門人となった。
 時に頂行三二歳であったという。富士講は江戸時代のはじめ修験道の行者長谷川角行によって開かれ、享保年間にいたって食行身禄、村上清行などの行者の布教活動があってしだいに大きな教団に成長するが、やがて分裂して二派となった。頂行はこのうち身禄派に属し師の三志の信任も篤く、同門の逸足として大いに頭角をあらわしたが、文政八年(一八二五)自ら布教のため京都に上らんとして途中、東海道見付宿で病没した。その年七月のことで時に四七歳であったという。次は辞世の一首
 
  心こそ花の衣を脱ぎすてて
       都の空へ雁出でにけり 忠八
 
 頂行の志はその遺子忠八が継いだ。号を三貞と称して富士講の行者になり、自ら二代目頂行を名乗ってさかんに布教活動を展開した。その中でも特筆すべきは幕府が富士講に対して反体制的結社と目し、弾圧を加えているのに抗議し、嘉永二年(一八四九)信仰の自由をもとめ朝廷の力を借りて幕府に請願したという一事がある。
 

勧善録(頂行自筆稿本)

 水海道にはかつてこの鈴木頂行父子のような熱烈な富士講の行者があらわれ、その説くところの相互扶助の精神と商人道の確立につとめていたればこそ、それが不知不識の間に、時にはまた、講社とは特にかかわりあいもないまま、水海道商人の心の糧となり支えとなっていたことは否定できない。そのころ水海道が商業都市として発展途上にあったのも、あるいはこの辺に基因するのではないかと思う。