累(かさね)物語

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今から三〇〇年ほど昔、羽生村の百姓で与右衛門という者が、横曽根村の後家お杉という女を妻にめとった。このお杉には助という子があって、連れ子して与右衛門のところへ嫁したのである。ところが助は醜い片輪者なので与右衛門はこれを憎み、ある夜ひそかに助を鬼怒川の七つ塚という落し堀へ誘い出して殺してしまった。その後、お杉は女の子を生み、その子に累(るい)という名をつけたが、その顔かたちが先に与右衛門のために殺された助そっくりだったので、世間の人は殺された子が生れかわってきたのであろうといって累をかさねと訓読みして呼んだ。やがて与右衛門夫婦は死に累は孤独の身となったが、世話する人があって谷五郎という者を婿に迎え、谷五郎は二代目与右衛門と名を改めた。しかし、谷五郎のこの結婚は累の持っている財産を得るのが目的であったから追い追い醜い累が邪魔になって、終に累を鬼怒川のほとりへ連れ出して殺害してしまった。その後谷五郎はつぎつぎと六人の妻を迎えたがいずれも皆病死してしまい、最後に近村からおきよという美人を迎え、間もなく一女をもうけたのでお菊と名づけた。そのお菊が成長して婿を迎えたが、婿を取った翌年お菊はにわかに奇病にかかり、半狂乱の状態で「自分は二六年前、夫の与右衛門に殺された累である」などと口走るようになった。
 驚いた村人たちは累の怨霊にとりつかれたお菊の病気を何とかして癒してやりたいと思い、当時弘経寺にいた修業僧の祐天を招いて怨霊解脱の法を修行してもらうことにした。その結果、お菊の病気も癒り、二代目与右衛門の谷五郎も前非を悔いて仏門に入り、名を西入(さいにゅう)と改めて助や累の供養に一生をささげたという。
 

かさね曼陀羅(法蔵寺蔵)