お伽羅(きゃら)物語

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我が国には昔から人柱という信仰があった。水利や土木の工事が難航した場合、その現場に生きたままの人間を神への捧げ物として埋め、神慮をなぐさめるとともに、その神の加護援助を仰ぐという考え方から、こうした信仰が根づいていたのである。まことに残忍きわまりない俗信というほかないが、ともかく人柱信仰は遠い時代の歩みの中で全国的に分布し、民間信仰の一角を占めていたのである。
 この人柱にまつわる伝承が水海道市大輪町にも残っている。時は今からかぞえて三二〇余年前の明暦二年(一六五六)にさかのぼる。
 この年、鬼怒川べりの上大輪村では連日の大雨のため堤防はまさに決潰寸前に迫っていた。村人たちは総出でこの危機を救うため必死の防災工事に努めたが、荒れ狂う大洪水の暴威を前にして手の施しようもなく、不安は刻々と募るばかりであった。この時疲れ果てた人びとの間にだれ言うとなく「人柱」の囁きが広まっていた。うら若い乙女を人身御供として竜神へ捧げ、そのお力にすがって大自然の恐怖から逃れようとしたのである。こうした興奮の中へ運悪く来合わせたのがお伽羅という孤独の小娘であった。この日お伽羅は炊出しの弁当を背負い、大きな鍋を提げて現場へ出向いて来たというが、ところが彼女を待ち受けていたのは異常に血走った村人の眼で、いきなりこの小娘をとらえて渦巻く濁流と雨のため緩(ゆる)んだ堤防の土砂の中に埋めてしまったのである。お伽羅の生国は越後、母とともに諸国を巡礼してたまたま上大輪村にさしかかったその夜母の急死に見舞われた。やむなく孤独の身をここの名主古谷大膳の許に寄せているうちに、この生贄に供されてしまったのである。これには後日物語がある。つまり不慮の死を遂げて浮かばれないお伽羅の怨霊がやがて数々の不思議なたたりをこの村にもたらしたというのである。
 大輪町にある元三大師で有名な安楽寺の西山門をくぐると、すぐ右手に一基の碑がある。碑面を見ると「八池妙華信女」明暦二年四月一二日と刻んである。これがお伽羅の供養塔である。安楽寺といえば戦前には「伽羅面」と呼ぶおよそ一町歩の田畑があった。お伽羅の主人にあたる古谷大膳が悲命のこの少女の追善供養のため菩提寺に寄進したものだという。