若森県・葛飾県の誕生

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慶応四年(一八六八)一月、明治新政府は王政復古の大号令を発し、同四月には討幕軍が江戸城に入った。幕府最後の将軍となった徳川慶喜は水戸に隠居し、怒濤の勢いの官軍は、結城城にも攻撃をかけてこれを陥落させ、五月には古河駅に下総野(げそうや)鎮撫府を置き、当地方の軍事的制圧にあたった。
 新政府は徳川家に駿府七〇万石を与えここに封ずるとともに、既に没収となっていた旧幕府領には府県をおき、これを管轄させた。これにより、天領、旗本領が圧倒的に多かった水海道地方は、新政府の直接の基盤に組み入れられた。常陸知県事、下総知県事という役人と役所がおかれ、治安、徴税にあたったが、水海道を含むこの地方は、寄場(よせば)組合といういくつかの地域ブロックによる行政浸透の機関を通して支配されていた。
 しかし新政府の一元的支配に服したものの、行政的には全く混乱状態にあった。下総野鎮撫府から民心の安定をさとす達しが届いたかと思えば、今度は同じく結城の役所から、さらに土浦役所から地方安定のための調査方を命令する達しが届くといった具合で、寄場役人をはじめとして、大いに困惑の状態を呈した(富村登著『水海道郷土史談 前編』)。
 こうした混乱は、翌明治二年(一八六九)、常陸知県事が若森県に、下総知県事が葛飾県となるに及んでも続いた。水海道市域が属した岡田・豊田両郡は、旧下総国でありながら、筑波郡大曽根村若森に役所がおかれた若森県の管轄下に属した。これは多分役所までの距離による便宜的なものであろう。当初は両方から通達が届くという状態だったが、北相馬郡域では、そのような混乱はなかった模様である。
 しかしこうした混乱よりも、社会の変革期に伴う民心の不安、動揺はより深刻であった。とくに幕府の直轄領から一転して、新政府の基盤となった約三年半の年月は、中央統一政権の形成過程にあり、当地に住む人びとにとって、否応なしに大きな転換が強いられる期間となった。