千葉県時代

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印旛県の時代は、明治六年(一八七三)六月一五日、同県が廃され、木更津県と合併して千葉県となるに及んで終りを告げる。その間約一年八か月であった。既に合併に先立つ同年二月から木更津県令柴原和及び同権参事国司仙吉の両名は、それぞれ印旛県の権参事、参事を兼務しており、事実上は統廃合に向って進んでいたのであった。千葉県誕生後は、県庁舎は旧印旛県取締所のあった千葉郡千葉町におかれたが、県庁機構の骨格は木更津県のものを踏襲したといわれる。
 千葉県では地方統括の手段として、当初から庶務、租税、出納事務を取り扱う出先機関を安房郡北条と猿島郡境におき、支庁と称した。また翌年から、警保視察の治安機能を司る取締所を各地に設置し、水海道にも設けられた。のちに各大区毎に事務取扱所がおかれ、同時に治安、警察の機能をもつ取締所が併置されることになった。
 大区・小区制も当然組み替えられ、従来の印旛県第四大区、第五大区はそれぞれ、千葉県第十六大区と第十四大区に変わった。水海道市域をみると旧岡田郡域は全て第十六大区一小区、旧豊田郡域は第十六大区五小区、北相馬郡域は第十四大区七小区になった。各小区の役職名は、戸長頭取が区長と変わったが、戸長、副戸長等はそのままであった。
 また千葉県においては、県下全一六大区から二名ずつの代議人を選び、これをもって千葉県会を開設した。ここには十六大区から、赤松新右衛門と、秋場桂園が参加している。当初は月一回開催する予定であったが、年四回(三、六、九、一二月)となり、民費、産業、学校、衛生、宗教、風俗、土木等の地方に関わる種々の問題が議案となった。この県会の下に、各大区会議を開催することとなり、県会の行われない月の、都合年八回開会することが義務づけられた。県会の代議員が議長となり、議員には区戸長があてられたというが、詳しくは不明である。
 明治七年(一八七四)七月、千葉県では地方行政機構の全般的な整備、改革が行われた。この改革の基本的な狙いは、行政の実を上げるために県官と区戸長の協力体制が不可欠であるという理由から各大区に扱所という役所が新設されたことであった。そして扱所において正副区長が事務をとること、これにならって小区では正副戸長が事務を取り扱うこととされた。したがって大区に正副区長、小区に戸長一名及び人口に応じて副戸長何名かがおかれたのであるが、十六大区においては豊田郡石下に、また十四大区では布佐に、大区扱所があった。
 明治八年(一八七五)五月、新治郡の廃止に伴い、千葉県と茨城県との間に、県域変更が行われた。それにより千葉県に属していた旧下総国のうち、主として利根川以北の下総国六郡は茨城県に編入された。これにより、印旛県→千葉県と変わった水海道地方は、茨城県として、ようやく固定するに至った。
 

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