茨城県への編入

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明治八年(一八七五)の茨城県編入により、当然行政組織の変更も伴った。県下全域が一二大区に分かれ、水海道地方の岡田、豊田両郡域は第七大区七小区、八小区、九小区の三区に、北相馬郡域は第九大区一小区となった。小区の組み合わせは千葉県以来のものと基本的には変化がなかった。
 また県庁(水戸)から遠い地方県民の便宜と、県政の円滑化を図るため、土浦と下妻に支庁をおき、県西地方は下妻支庁の管轄下となった。
 茨城県編入の当初は、原則として旧来の役職はそのまま引き継がれたと考えられるが、その年一二月には、県布達三〇六号により、変更があった。それによるとこれまで小区の筆頭におかれていた区長は全廃され副区長と改められ、これが小区内の戸長、副戸長を管掌することとなった。また翌九年二月からは、地方統治のために各小区の便宜の地へ、小区扱所が設けられ、ここへは正副戸長が日勤して事務をとり、月一、二回の打合せが行われることになった。
 正、副戸長の選出基準も設けられ、戸長は戸数で八〇〇軒、あるいは反別で八〇〇町をもって一人とし、副戸長はその四倍の数とされた。小区には普通二、三人の戸長がおかれたから平均的な一小区の役職を整理すると、副区長(一名)、戸長(二、三名)、副戸長(八~一二名)となる。
 さらにのちには、小区行政の円滑化をはかる意味で、具体的に村落の行政の中心となっていた副戸長を補佐するため「書記」をおくこと、また一〇戸から二〇戸に一人の割合をもって「人民惣代」なる役をおくことも定められた。そしてその人民惣代をもって町村議事会を設けることも定められたが、実際に具体化したか否かは、地域の事情により異なる。このように明治五年以来、大区・小区を基調にした地方行政組織が展開し、矢継ぎ早に制度の改変等が行われたが、変革の時代を反映していずれも暗中模索の連続であった。
 明治一一年になり、こうしたありかたに根本的見直しが行われることとなった。