秋場庸の活躍

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秋場庸は、水海道村で代々名主をつとめた権左衛門家に、天保五年(一八三四)に生まれた。三〇代の半ばで明治維新を迎えたが、当時父桂園は健在で、勧農役や、印旛県→千葉県時代に開設された「民会」という名の地方議会の議員として活躍していた。彼は旗本日下氏の腹心の部下として苗字帯刀を許され、幕末激動期に臨んでいたが、しだいに勤皇派の思想に傾いていった。こうした父の影響もあってか、庸自身は、維新後、新政府の司法省に出仕し、東京府権少属から権大属をつとめた。
 こうした役人生活を送った庸が帰郷し、明治一二年三月、県会議員に選出された時、彼は既に四五歳であり、議員の中では中堅から年長組に属していた。県会議員庸の肩には時代を反映する重い仕事がつぎつぎとかぶさってきたのは当然であった。
 その最も大きなものは、当時全国的に興隆しつつあった国会開設を求める運動であった。その年の六月、千葉県武射郡小池村(現山武郡芝山町)の村会議員桜井静なる人物から、庸に一通の手紙が届いた。中には「国会開設懇請協議案」と題する印刷物が入っていたが、この手紙こそ、全国の府県会議員、有志など約一万人に対し発送された「今こそ国会開設を求める運動を起こそう」という歴史的に注目されるアピールであった。つまり、府県会の開設という新しい事態を機として、全国各地の政治指導者が結束して運動を展開しようというもので、その一節はつぎのように述べている。
 
   一国ノ人民タル者其一国議政ノ権利ナキハアラス既ニ其権利ヲ有スル以上ハ之ヲ実用ニ施ス可キ権利ア
   ル国会ヲ開設セサル可カラス……本年ニ於テ地方県会開設ノ挙アリト雖モ其権限狭少議件隘縮ニシテ僅々
   一県地方税徴収ノ下問ニ供スルニ過キス……
 
 桜井静のこの手紙は、全国の府県会議員が親しく連合して、東京に国会開設を求める集会を開き、その力で政府に働きかけることを呼びかけた、画期的なものであった。
 こうして、人民の権利や自由を主張する考え方やそれに基づく運動は、ようやく茨城県内にも芽ばえつつあり、豊田郡宗道村には、県下で最も早い民権政社、同舟社が結成され、演説会や学術研究会を開きはじめた。
 桜井静の懇請案に対し、茨城県では県会議長をはじめ全県議が賛意を表明した。時機を得た提案であったので、全国的にも同じ動きが展開された。
 これに勇気づいた桜井は、翌一三年(一八八〇)一月、五月一五日を期して、協議会を結成したい旨、再度提案を行った。このなかで彼は、各府県二名宛の代表を選出し東京両国中村楼に派遣するよう指示していた。しかしその中村楼に全国の各府県代表者が集まったのは二月二二日で、提起された筋書きよりも三か月早く実現することとなった。当日、地方官会議の傍聴に来ていた各府県会の代表一〇四名が、岡山県代表の呼びかけで急拠集会を開くことになったからである。茨城県からは、議長の中野泰、猿島郡辺田村の豪農中山三郎をはじめ、一〇名が参加した。秋場庸もそのうちの一人であった。