国会の開設を求めて

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県会議員を中心とした国会の開設運動が進められる一方で、「そうした一部の有力者、それもごく限られた富裕な階層から選ばれた議員だけの運動では物足りない」とする批判が出てくるのも当然であった。そうした意見の持主は、もっと身の回りの、在地の若者たちを中心に、新しい民権政社を組織していく。
 明治一三年(一八八〇)二月当時、茨城県下には、おおよそ第三表のようなグループが結成されており、学習会、政談演説会などの活動をはじめていた。
 
第3表 常総の民権政社
政社名所在地及び中心人物
同舟社豊田郡本宗道村
 森隆介,野手一郎,飯村丈三郎,赤松新右衛門,
 内田林八,大久保不二,木内伊之介
民風社真壁郡下館町
 富松正安,仙波兵庫,倉持茂三郎,勝田盛一郎,
 田宮太平
愛交社真壁郡久下田村
 霜勝之助,渡辺豊八郎,増淵徴,柴長左衛門
喈鳴社猿島郡岩井町
 中山三郎,藤田順吉,朝倉達男
茶話会猿島郡諸川村
 知久義之助,斎藤万助,小林政介
改進社北相馬郡守谷町
 斎藤斐,小林秀三郎,飯島省三郎
薫風社西茨城郡笠間町
 石井藤右衛門,石井雅太郎,木村信義
同倫社新治郡常名村
 吉島高尚,遠山松吉,岩沢仲通
公益民会行方郡潮来町
 磯山清兵衛,窪谷足穂,石田潤之助
有隣社多賀郡折笠村
 野口勝一,大津淳一郎


 
 さて、明治一三年二月一五日、豊田郡宗道村の民権政社、同舟社の呼びかけによって、茨城県下民権政社の連合会が開かれた。各政社を代表した二一名が会したが、翌二月一六日の会議において「国会開設の請願運動を行なうため、郡ごとの受持区域を定め、約一か月後の三月二〇日、その成果を持ちより、再びここに集まろう」という決議「茨城県連合会決議書」がなされた。「夜を日に継で郡村の遊説」を行うその費用は各政社、各自の自弁とした(同書第四条)。彼らはひと月後の再会を約してその日から、文字通り草の根を分けるような請願署名運動に入っていく。その模様を「東陲民権史」はつぎのように雄弁に語っている。
 
   去程に陰陽峰(筑波山)頭参会の諸氏は筑波土産を持帰りて、之を同志に披露し夫々遊説の手順を定め腰
   弁当切草鞋軽々しく出立て毎町村戸長は勿論普通人民に至るまで洩らさず歴訪し日本内外の現状国会開
   設の急要及び参政の権利は人民自ら進んで取らざるべからざる所以(ゆえん)を説示して其同意を求めけ
   るに到る所響きの物に応ずるが如く敢て一人の反対者なかりき……
 
 このように打てば響くような反応を得つつも、署名運動は約束の一か月後に全てを集約することはできなかったが、四月下旬までに全県下一万一八一四人の同意連印を得た。その中から水海道地域の署名状況を一、二の例でみてみよう。
 
   (下総国豊田郡)
   上川崎村中川崎村下川崎村沖新田
    百五十名総代 沖新田平民
             池田重良平
   福田村福崎村上蛇村三坂新田
    二百四十三名総代 福崎村平民
            谷田部久右衛門
 
 ここにある総代の役割は、全員が署名捺印したあと、その代表者としてであったのか、全員が一々署名はしなかったものの、事前に寄り合いか、村内持ち回りかいずれかの形で合意を取り付ける働きかけをしたものなのか、あるいは村むらに廻ってきた運動員の説得に応じて、戸長クラスで村を代表した彼らが事後了解を前提に、何名総代の形をとったか、いくつかのケースが考えられる。近世以来の村々連判の形も想像出来るが、やはり個々人(といっても戸主ではあるが)が参加する民主政治を目指した運動であり、おのずからその在りようは、草の根を掘り起こすような、画期的なものであったといえよう。
 そうして集められた全県下の署名簿を、郡別に整理したのが第四表である。
 
第4表 明治13年の国会請願署名者数
 

郡名
署名
総数
総代
人数
内  訳署名の
あった
町村数
士 族平 民
豊 田4,9585515475
岡 田2,330434341
真 壁1,986252548
筑 波
新 治
信 太
2,03855 2
行 方213145913623
結 城747422528
鹿 島505034718
西茨城153212
猿 島1111
11,66540142359218
(相沢一正「森隆介研究ノート下」『茨城県史研究第10号』)


 
 当初この署名運動は全県下をくまなく網羅することを目標にし、力量に応じた受持区域を決めていたが、当然のことながら郡によりかなりのバラつきがみられた。まず珂北三郡といわれる那珂、久慈、多賀の三郡には一人も参加者がいない。しかしこの地方には、大津淳一郎を中心とした興民公会という政社が、独自に署名運動を展開しているので、これは除外してよい。残りの東西茨城、猿島及び西葛飾、北相馬、河内の諸郡もゼロもしくはそれに近い。しかし水海道市域に関係のある北相馬郡には、守谷の斎藤斐(あきら)を指導者とした改進社という政社があり、市内の民権家小林秀三郎、松田秀軒、長塚玄春らがこれに加わっていた。斎藤斐は、筑波山の会にも参加し国会請願書の起草委員のひとりにも選ばれており、全く運動がなかったとは考えられない。署名簿に現われていないのは集約に間にあわなかったか、あるいは手落ちと判断されないこともない。ただ斎藤自身がのちに、自分は早くから大隈らの改進党系に近い立場であったと述べているから、この署名運動の中心を担った同舟社の人びとが自由党系だったことを考え併せると、県北の改進党、大津淳一郎らに歩調を合わせて、次第に筑波山に結ばれた茨城県連合会とは別行動をとるようになったと判断することも出来る。
 こうした幾つかの条件を差し引いた上で、総数一万一千余の署名者中、運動の呼びかけを行った同舟社の属した豊田郡が全体の四割以上の署名者を得ていた。二番目に多いのは岡田郡で、この両郡で既に六割をこえている。しかもその両郡につき、現水海道市域の署名者数をみると、豊田郡の四二パーセント余、岡田郡の五五パーセント余を占め、これだけでも水海道地方が、茨城における国会開設請願の署名運動については、最も昻揚した地域であったことが推察される。
 
第5表 水海道地方の国会開設請願署名者数(関戸覚蔵編『東〓民権史』)
村     名署名者数総   代   名備    考
上川崎,中川崎,下川崎,沖新田150池田重郎平(沖新田)
福田,福崎,上蛇,三坂新田243谷田部久右衛門(福崎)
水海道駅829五木田総右衛門※総代3,別記17
新井木,長助新田,兵右衛門新田,箕輪,大崎168本橋善重(長助)     〃 1
十花,平右衛門新田,相野谷,中山,小山戸279秋場八左衛門(相野谷)     〃 2
中妻204落合久兵衛  〃 2
三坂266柳田伝衛  〃 1
花島93草間奥逸  〃 2  〃 1
大輪120草間吉左衛門  〃 1  〃 9
大生郷,大生郷新田259坂野慶蔵(大生郷)     〃 2
横曽根古新田,同新田,笹塚新田,五郎兵衛新田229星久馬(横曽根古新田)     〃 1
飯沼25飯田作平     〃 2
横曽根,羽生375永野三左衛門(横曽根),石塚精三郎(羽生)     〃 8
報恩寺189石塚十内  〃 1  〃 1
伊左衛門新田,古間木,同新田,蔵持,沼新田183稲葉宇右衛門(古間木)
計 3,612計  10   44
 備考欄の数字は署名形式が別記載となっているもので,運動に積極的に参加したため別記載されたものと考えられる。


 
 こうして予定より一か月ほど遅れて集められた一万有余名の署名者は、「おおむね戸長または門地家であり、十分郷党を代表すべき人々だから、これで遊説は中止し、速やかに請願委員を上京させよう」と意見がまとまった。五月中旬には代表となった磯山清兵衛、増淵徴、渡辺豊八郎らが相ついで上京し、全国から同じように集まって来た代表らに交って、盛んな運動をくり広げることとなる。