県下に起った自由と民権を求める様々な運動は、明治一七年(一八八四)九月の加波山事件の勃発を境として、殆んど沈滞して了ったかの観があった。その後は「倶楽部」という柔かく目立たない形での、学習や演説、討論、懇親の組織化が、かつての民権家により進められていた。明治一八年、下妻に常総倶楽部が、大久保不二、飯村丈三郎、内田林八らによって結成され、また明治二〇年(一八八七)三月には、水海道駅に松田秀軒らにより「水海道倶楽部」の設立が呼びかけられたが、これも同様の性格をもっていたと思われる。その「設立緒言」によれば、「文雅懇親商会等」の組織がこれまで到る所に出来ているが「朝会暮散一<トシテ>ナス所ナシ徒一場ノ遊楽タルニ過キサルノミ」という状態であった。そこで発起人達は、「同志相謀リ乃チ金若干ヲ募リ以テ一館ヲ設ケ名ケテ水海道倶楽部」を設立する。会の運営は「凡ソ間暇休日毎ニ皆此館ニ会シ演説ニ討論ニ文雅ニ懇親ニ商会ニ各好ム所ニ従ヒ以テ其楽ヲ尽クス啻ニ其楽ヲ尽クスノミナラス自今而後益交誼ヲ厚クシ進テハ倶ニ国家ノ益ヲ謀リ退テハ倶ニ自己ノ利ヲ起ス……」と表明している(傍点は引用者)。
会員となることを希望するものは一株五円の株金、一株以上の出資が義務づけられた。自己の利益とともに、国家の利益を謀ることにより積極的な意義を認めている所に、この倶楽部の性格の一端を知ることが出来る。
この会の中心メンバー及びその後の展開については全く判然としない。この会自体も「朝会暮散」の憂き目を見たのであろう。しかし会の性格は、当時における水海道地方の有力者の意向や展望をいかんなく示していたと思われる。それは、この時期から利根川江戸川を結ぶ「利根運河」設立の気運が、県西南部一帯に盛り上がりをみせ、水海道地方でも秋場庸を始め、水運に町の将来の発展を托す者が多かったことにも現われている。また翌明治二一年には、水海道と豊岡を隔てる鬼怒川に、豊水橋の架設が主唱され、翌々二三年には、木橋の豊水橋が工費七万八千余円を以て架設された。このような地方(経済)の発展を、政治力と結びつけて実現しようとする傾向は、明治二三年(一八九〇)に予定される帝国議会の開設に向けて益々強くなり、政治的結集が図られていった。
明治二一年七月、下妻町の常総青年社が雑誌『常総の青年』を発刊した。これは国会開設に向けて、従来の自由、改進といった党派にとらわれず、大同団結を図るという運動の一環として生まれてきたものであった。その中央における指導者は後藤象二郎で、下妻では自由党左派の流れを汲む森隆介(宗道)や下妻の柴孫二郎、内田林八、若きインテリ木内伊之助らがこれに呼応し、あたかも県西地方における旧民権家の再結集の場となった感さえあった。(相沢一正「森隆介研究ノート(下)」『茨城県史研究』第一〇号)。
明治二一年一二月、茨城県会で問題となった県立病院払下げ事件に関連して、各地にこの不正を追求する政談会がくり拡げられ、同年一二月二五日、水海道にも弁士が訪れ、聴衆は盛況を極める集会となった。報国寺で開かれた演説会の内容は、つぎのとおりであった。
国民之本分(内田林八)、政治一班(森隆介)、農民の勝利(山川善太郎)等の演説あり、聴衆百七八十名に
して熱心に聴聞せり、唯小久保、谷島<弥平太>其他諸氏の演説ハ認可せられざりしは遺憾なりし
この大同団結運動の狙いは、欧米列強の圧迫や、重税、貧困等、内外の危機が進行する情勢にかんがみ、地方の財産家、紳士、壮士を先ず団結させて、明治二三年の国会開設に向けて、責任ある代議士を選び出すことにあった。
こうした中で水海道地方でも、山中彦兵衛、小林秀三郎、青木利平、飯田瀧造、青木伊兵衛、滝川富之助といった「同地の豪商紳士ハ勿論鄰郡の有志家は皆な」これらの動きに呼応して「大日本私立農工商協会」という、やゝ大げさな名前の会を設立した。この会は、農工商業に関する、一、学理知識の上進、二、切要必須諸点の調査、三、理論と実際の調和、四、協同団結、という目的をかかげていたが、莫然とした研究、親睦の団体であった。明治二一年七月、水海道駅報国寺で開かれた開会式には、林信太・河内郡長、尾崎結城・岡田・豊田郡長の外、農学士志賀重昻、今外三郎が出席し、二七〇~八〇名が集まった。その中でも、「志賀氏ノ特有物産ヲ起ス云々ノ演説ニ至テハ頗ル聴衆ニ感覚ヲ与ヘ満場ノ喝采ヲ得タリ」と報告されている。
この志賀重昻は、雑誌『日本人』に拠る、三宅雪嶺、杉浦重剛ら国粋主義者のひとりで、大同団結運動を支持していた人物であった。民権運動の伝統に基盤を置きつつ、水海道地方の政治運動も国会の開設を前にその性格を大きく変えつつあった。
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