一町九か村の姿

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明治二二年(一八八九)の市制、町村制で成立した市内一町九か村の姿を、明治三〇年発行の『茨城県町村沿革誌』の中から見てみよう。そこには、各町村ごとの旧村名、沿革、地勢、人情、風俗、交通運輸、物産、水利の関係、役場位置、名称、合併理由などが簡潔に記されている。
 これら町、村が形成された状況は、「合併理由」として記されているが、これによれば、ごく自然に必然性をもって結合した面と、便宜的、形式的に成立した面の、両面をみることができる。もっとも、一町九か村の内には、単独で一町、村を形成したものとして、水海道町、内守谷村、坂手村があり、さらに明治一九年に、既に合併していた豊岡村のあわせて一町三か村があった。
 残り六か村のうち五箇村は、上蛇、川崎、沖新田、福二、三坂新田の五か村が「著シキ地名等」がなく、単に五村が合併したという意味で村名が決まる、という次第であった。この村の合併理由は、「本村内ニ於テ旧上蛇村、旧川崎村ハ稍ヤ大ナリト雖モ戸数百余戸人口八百ニ満タサルヲ以テ到底独立自治ノ資力ニ乏シキヲ以テ此五ケ村ヲ合シテ一村トナス」とされており、比較的大きな村であっても人口、戸数等の規模の点で、到底一村を形成しえなかったため、五か村合併となったとされている。しかし「人情風俗」の項をみれば、「旧各村トモ概ネ淳朴ナリト雖モ亦少シク進取ノ気象ヲ有スルモノアリ其交際等ニ至リテハ敢テ異ナルコトナク」とあり、似かよった五村が合併したことがわかる。しかも「水利ノ関係」の項には、五か村の内、川崎を除く四か村が全て、江連用水組合に属しており、その意味でも、結びつきは強かったといえる。江連用水を共有する点では三妻村の場合も同様であった。
 

合併町村一覧(『茨城県史・市町村編Ⅱ』より)

 大輪、花島、羽生の三村が合併した大花羽村の場合も、その事情はほゞ似かよっていた。この三村は戸数の上で標準規模に達してはいないが地形的にみて、鬼怒川に沿って細長く延びており、南部には既に合併の決まっていた豊岡村が位置していたため、同じ岡田郡内では、とり残された格好になっていたのである。しかし「地価金九万一千六百七十円ノ多額ニ達シ頗ル民力ニ富メルヲ以テ自治ノ体面ヲ維持スルニ足ル」という、一村として成り立つ条件を満たしたため、三か村合併に至ったわけである。大花羽村の場合も五箇村と同様に、人情風俗の上で「旧各村共ニ人情ノ異ルコトナク」、水利関係の上でも三村共に吉田用水の灌漑を受けていた。
 北相馬郡菅生村の場合は、旧菅生村においては戸数が三二九戸と、一村を形成するに充分であったが、大塚戸村は戸数が少なく、郡内のはずれで旧菅生村以外に合併すべき対象がなかったため、二か村合併で菅生村の名を冠することとなった。この村の場合も、「人情風俗其他ノ慣行等両村共ニ大差」なく、地勢の上でも「村民常ニ相往来シ自ラ一村ノ観」をなしていた。
 結城郡大生村の場合は、いずれも戸数一〇〇戸に満たない一二の小村が合併して成立した。この村も「各自独立ノ資力ニ乏シ然ニ地形一村ノ観アルノミナラス人情風俗等同一ナル」という理由で形成された。菅原村も旧大生郷村が戸数一七〇余戸とやゝ大きかったが、あとの五か村はいずれも一〇〇戸に満たない小村であった。菅原村は飯沼用水の灌漑を受ける「交際親密」な村の合併で発足したのである。
 このように一町九か村の成立は、水利関係をはじめとする旧来からの伝統的な結びつきの上に、財政規模の上で町村運営が可能な程度に、形式的に上から合併させられて出来上がったものであった。
 なお、『町村沿革誌』には各町村の生計状態や、人びとの気質についても、短かいコメントが書き添えられている。水海道町については、「専ラ商業ニ従事シ傍ラ耕耘ニ従事シ進取ノ気象ヲ有シ能ク業務ヲ励ム、生計上ハ郡内無比ノ富裕ナリ」と賞讃された。ここで進取の気象とは抽象的であるが、五箇村、三妻村でも、「少シク進取ノ気象ヲ有スルモノアリ」とか、「進取ノ風アリ」とかのべられており、逆に菅生村には「稍ヤ進取活発ノ気象ニ乏シキ」と記されているが、物事すべてに積極的な反応をするか否かという、移り替わりの激しい時代にあっての、ひとつの評価とみることができよう。生計については、坂手村、内守谷村が、「貧富相半ハ」しているとあるが、五箇村、大生村、大花羽村等は「生計上ニ至テハ少シク余裕アリ」、「生計上ハ概シテ余裕アリ」、「生計余裕アリ」というふうに、ほゞ同様に表現されている。また三妻村のように、「生計上ハ敢テ困難ト云フニ非ルモ余裕アルニアラス」と、言われたところもあった。これらはとくに客観的根拠があって述べられたものではなくむしろ編者の主観によるものであったが、形成されたばかりの、行政町、村の姿の一端を知ることが出来る。