ここに一人の人物を紹介しよう。彼は市内大生郷新田町に生れ、明治初期に印旛県の共立学舎に入学し、教師の資格を得たのち帰村し私塾を経営する。彼、福田貞助(号桂雨、弘化元年~大正一三年)に、自ら編んだ「桂雨経歴誌」という草稿がある。大正六年初期に筆耕されたものであるが、その末尾近くで彼は、日清戦争当時における彼自身と周辺の動きについて次のように記している。
<明治二七年> 八月一日 天皇陛下清国カ朝鮮ノ独立ヲ妨クルヲ以テ赫怒アラセラレ宣戦ノ詔勅ヲ有衆
ニ示サル
是月十六日 日清戦争ニ付菅原尋常校ニ於テ中島観琇、中川政之助、渡辺武助等ノ演説アリ聴衆最モ
盛ナリ
是月廿一日 陸軍恤兵総監ヘ戦費トシテ金壱円ヲ献納セリ
是月廿四日 夜水海道麻布屋裏ニ壮士芝居アリ同観者……渡辺……岡田……等……ナリ
十月十一日 日清戦争出兵遺族ヘ義捐金二十五銭ヲ寄附シタリ
十一月廿七日 石井吉蔵陸軍歩兵トシテ入営スルニ付我塾生十有余人送旗ヲ製シ余ト福田幸蔵ト鎮守天
神マテ送リ神官ニ兵士安全ノ祈祷ヲ依頼シ社内ニテ別盃ヲメグラシ玆ニテ袂ヲ分テリ
是月四日 夜水海道麻布ノ芝居見ニ行ク……
是月十二日 菅原尋常小学運動会アリ余カ塾生モ誘引セラレ之レニ参加ス(略)
(明治廿七八戦役ノ際軍資ノ内ヘ金壱円献納候段奇特ニ候事ノ賞状茨城県知事従四位勲四等小野田元熈
殿ヨリ賜ハル)
△明治廿八年乙未一月五日本家福田幸蔵方ニ追善アリ(中略)
是月十二日 西念坊ニ於テ日清戦死者菅谷米治ノ葬儀アリ養男吉蔵塾生ヲ率ヒテ之レニ会セリ
(中略)
三月十三日 吾郷青年者幻燈器械ヲ買入四月一日発会式ヲ挙行シ予会長ニ推薦セラレタリ爾来青年者ハ
沓掛ノ山崎古沢其他所々ヘ依頼セラレテ其所望ニ応センナリ
四月廿一日 天皇陛下ヨリ客歳八月以降清国ト交戦セシガ玆ニ至リ平和回復ニ関スル詔勅下リタリ
是月卅日 天皇陛下広島大本営ヨリ還御スト拝聴シ我鎮守天神社内ニ於テ遙ニ奉迎会ヲ挙行セラル
余恭シク奉迎ノ辞ヲ朗読セリ左ニ(中略)
六月廿五日 篠山峯ノ増田源吉日清戦地ヨリ帰郷セシニ付芳樽ヲ携テ之ヲ慰問セシニ不斗モ馳走ヲ受
ケ一泊シテ帰レリ
(中略)
十一月十日 菅原大花羽豊岡ノ三ケ村聯合シ安楽寺ニ於テ征清凱旋軍人ノ大歓迎会ヲ挙行セリ余モ塾
生二十六人鳥打帽子ノ揃ニテ義重於泰山命軽於鴻毛ノ十字ノ旗ヲ掲ゲ尋常校生徒ト共ニ
操出シ安楽寺ニ練リ込ミ寺前ノ控席ニ着ケリ本堂ニハ郡長村長義勇団凱旋軍人及学校教
員有志輩充満セリ余興ニハ烟花アリ豊岡ヨリ船屋台ヲ出セリ其盛大ナルコト言語ニ尽シ
カタシ(以下略)
私たちはこの記録によって、明治二七年(一八九四)八月の開戦から翌二八年一一月までの状況――三か村連合の凱旋軍人歓迎会にいたるまでの状況を、ある程度村々での動きとして知ることができる。特にこの中で注目すべきことは、日清戦争の末期に「青年会」が組織され、福田貞助自身が会長におされ、猿島郡方面にまで出張して幻灯会を開催するなどの運動を推し進めはじめたことである。これは後に詳述するが、当時県内各地に起った青年団体再編成の動きの先駆をなすものであり、彼のような村内の中堅的インテリ層がその推進力をになっていた事実を物語るものに他ならない。
また近代日本の最初の本格的な対外戦争であった日清戦争が、村々の国民にどのような影響を与えることになったか――とりわけ、その象徴的な指標である戦病死者の状況はどうであったのか――その一端を伝える資料ともなっている。ちなみに結城郡内においては、ここに記された菅谷半次(名崎村)のほか一八名の犠牲者を数えているが、市域内でみると水海道町の二名が戦病死するという結果を招いた戦争であった。
明治二七年>