日清戦争を契機として、各地に青年団体結成の動きがあらわれはじめたことは前項でふれたとおりである。他の町村内での状況をもみておくことにしよう。
市内で最も先鞭的な組織がつくられたのは豊岡村においてのことであった。民権運動期にも活躍した医師小林秀三郎は「浜砂原青年義団」を、いち早く「明治二十三年教育勅語ヲ下シ給ハリシヲ以テ動機」として結成していく。団の目的に「教育勅語ヲ遵奉シ青年ノ精神ヲ鍛練シ其品性ヲ高尚ニスルヲ主眼トシ併セテ農事ノ智識ヲ発達セント欲ス」と記し、精神の鍛練と同時に農業知識の向上もうたい、団長のほか幹事三名、通常団員二七名をもって発足した。具体的な活動として「毎年十一月中旬ヨリ三月下旬迄団長宅ニ於テ歴史及ビ農学ノ講話」を「十余年一日ノ如」く行なってきたと報じられている(明治四一年八月「地方青年会状況」)。
また同じ豊岡村内に「元飯沼忠愛会」という青年会が「明治二十七八年戦争ノ結果収得シタル遼東半島欧洲三大強国ノ忠言ニ依リ清国ニ還付シタルヲ動機」として結成された。会の目的は、忠誠武勇の気象と冗費を省いて節約を守る「勤勉貯蓄の美風」を養成することにあり、会長一名、幹事五名、会員二四名をもって発会した。
さらに前項でみた大生郷においては、豊岡村におけると同様の時期――日清戦争末期に結成されている。ここでは、地域に急速な国家意識が醸成されていくなかにあって、出征兵士の歓送迎や慰霊祭の一端をになう役割が、いっそう明白なものになっていく。
しかし以上の青年団体は、その設立年代で見る限りかなり早期に結成されたものであり、青年会結成が本格的に進むのは、日露戦争前後の時期である。この段階で行政町、村を基盤にして再編成が進められるが、この場合でも旧村の青年会の活動が要の位置にすわっていた。例えば、明治末から大正期に、副業奨励等で大きな成果をあげることとなる三妻青年会の沿革をひもとくと、次のように述べている。「明治四十四年二月聯絡統一ヲ図ランカ為メ本村十一ノ部落青年会ヲ聯合シ別項会則ニヨリ三妻村青年会ヲ創設シ同時ニ十一ノ支部ヲ置」いたという経緯が示すとおりである。