日露戦争忠魂碑(市内長助町)
戦争は直接に出征した兵士ばかりでなく、その家族からも、重要な働き手を奪うこととなり、また戦死した場合にはさらに図り知れない打撃を与えた。その上長期にわたる総力戦のため、非常特別税などの増税も加わって、人びとに大きな犠牲を強いた。三七年の国税は前年を大きく上まわり、逆に県税、市町村税などの地方税は前年を下まわった。国全体では約一割増額しているから、国税が如何に増加したか理解出来る。
戦争が各種産業にもたらした影響も見逃せない。商業については呉服太物商、肥料商、材木商、砂糖商、宿屋、料理店などに不振をもたらした。水海道町の物品販売業のうち、とくに卸売業者の売上高が減少した。
戦時下の各学校においては、児童、生徒を対象とした戦争への協力体制等が進んでいく。「菅生村郷土誌」には、菅生小学校における教師と児童たちの、日露戦争との関わりの一端が記されている。それによると、明治三七年九月七日の項に「……遼陽占領ノ報ニ接スルヤ我国未曽有ノ大戦ナレハ我国民タルモノ争(イカ)デカ祝意表セザランヤ玆ニ於テ戦勝紀念ニ……松樹一本ヲ校舎玄関前ニ植付遼陽松ト命名シ帝国万歳ヲ祝シタリ」とある。これ以降同校では、明治三八年一月一日、同校移転式とともに、「日露戦争幻灯会」を開き、同年中には、「旅順ノ松」、「旅順ノ杉」、「日本海々戦紀念松」、「奉天ノ桜」、「鉄嶺ノ松」が次つぎに植樹され、一〇月には、平和条約締結を祝う「平和ノ杉」も植えられた。
水海道小学校の「沿革誌」には、明治三七年四月の項に「日露戦後軍資金ノ内ヘ職員生徒ノ醵金弐拾弐円六拾九銭五厘献納」のことが記されている。また翌年二月には、「出征軍人恤兵品トシテ職員及生徒ヨリ手拭五百二十三本献納」のことがのべられており、さらに、戦争中に限って、出征軍人の遺族で救護を受けている子供には、学用品を供与するという措置もとられた。
大花羽小学校では、明治三八年「卅七八年戦役記念」として、第四回国債券額面一〇〇円を購入し、学校基本財産に充当した。水海道中学の済美会も、一〇〇円の会費献納を決定した外、戦勝のたびに提灯行列、旗行列に参加した。
町、村においては戦時中から戦後にかけて在郷軍人会の組織化が進み、住民の意識動員を図る上で、その役割を果した。こうして、戦争は生活のすみずみに至るまで協力、奉仕体制を進めていったため、人びとの生活は次第に苦しくなった。日露講和のポーツマス条約調印の行われた頃から、その講和条件などをめぐる国民の不満が広がり、日露非講和運動が広範に展開されることになった。