地方改良運動の展開

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前節の、町、村の歳入のところをふりかえっていただきたい。水海道町における町税は日露戦時下の三七年には、四九三六円余であったが、四〇年には六六二八円と、三四・二パーセントも増加している。また同じく三妻村の三七年と四一年を比較すると、七一・九パーセントも増していたことがわかる。戦時中国税のしわよせを受けて、極度に押えられていた町、村税が、諸事業のために急増せざるを得なかったからである。この増加は、水海道町の場合一戸につき約一円七〇銭にあたり、三妻村の場合も三円三〇銭余という多額の負担増をもたらした。とくに明治四一年以降になると、義務教育年限の延長や実業補習学校の開設等といった財政支出の増大が必要であったため、町村財政の運営は著しく苦しくなっていく。水海道町の場合をみると、経常費の土木費二〇四円の支出に加えて、臨時費として一一九二円余が支払われている。これは用水樋管費であったが、戦時下に支出出来なかったものを、臨時費として徴収処理したものと思われる。
 こうした町村財政の危機は当然のことながら国の政治そのものの動揺を意味し、内務省を中心とした地方改良運動が政府や県によって押しすゝめられることとなった。
 茨城県においては明治四二年(一九〇九)五月、「訓令甲第十三号」を以て町村是調査標準を布達し、各町村において翌年三月までに町村是を策定の上、提出することを命じた。そして、町村独自に策定した計画を以後五年間にわたって実行することを求めていた。市域の各町村においても直ちに調査委員会を置き、作業に取りかかることとなった。
 水海道町の町是調査にあたっては委員長に町長、主任には役場吏員があたり、調査委員として三六名が任命された。調査区を地区割りで四つに定め、調査事項に基づき戸別に聴きとりを行い、これを集計して、町是を策定するという手順がとられた。しかし、水海道町においては町是としてまとめられた形跡はこれまでのところ見あたらない。上からかけ声だけかけても、こうした事業の実現は難しかったことを示しているのであろう。
 茨城県では明治四四年(一九一一)、県是を実行するために模範的な町村を指定し、これらの町村で町村是の策定をするよう指導した。大花羽村がこの指定村となり、大がかりな改良事業に取り組むことになった。そして大花羽村の場合、大小さまざまな団体が結成され、運動に参加している。
 その中でも中心になったのは明治三五年一〇月設立の村農会であり、その下部に位置づけられた実行組合であった。また、三つの大字にそれぞれ、羽生自彊会青年部(明治四一年)、大輪青年同志会、花島青年会(明治四三年)と呼ばれる青年会が組織されていたが、この三青年会は明治四五年、合同して大花羽忠愛青年会となり、従来の各青年会はその支会と組織がえされていく。青年会の事業は学習(学識徳望家の講演、会員の演説討論、図書、雑誌の購読、夜学会、幻灯会、視察員派遣)、風紀(公徳の実行、茶話会、未青年喫煙飲酒の禁止、奢侈怠惰の矯正その他)、実業(共同貯蓄、試作、購買、販売、道堤橋渡の処理、共進会、農芸の練習その他)、運動(体操、撃剣、柔術、その他)であった。また忠愛青年会には女子部も置かれ「品位向上、賢母良妻の素養」を高めるなどの活動が期待されていく。
 さらに、明治四四年には大花羽小学校同窓会が組織され、会員親睦と知識交換を目的とする事業にとりくんでいく。
 帝国在郷軍人会大花羽分会は、明治四〇年四月に設立され、基本金五百有余円を有する有力な団体であった。日本赤十字社大花羽村分区会も明治四五年三月設立の有力団体であった。さらに地主会は、地主と小作人の調和を目的として明治四四年一〇月設立された。このほか、学齢児童保護会、衛生組合、消防組合、水防組合、火災予防組合、生繭乾燥組合、学校職員貯金組合、児童貯金組合、上花島貯金組合などが、いずれも明治三〇~四〇年代にかけて結成された。さらに県是実行組合が組織され三大区四〇小区に実行組合が置かれ、一小区に組合長が置かれた。結成以来の実行組合は軍隊的な組織規律で行動し、生産奨励の実をあげることができた。
 大花羽村の様な諸団体の結成や、地方改良に向けての運動は、多かれ少なかれ全ての町、村で実行された。市内では、「大花羽村是」の外、「豊岡村是」、「菅生村是」の発行が確認されている。中でも豊岡村長小林与三郎は、優良町村運営として表彰を受け、また内守谷村の購買販売組合も、県下優良産業組合として表彰された。このように「優良」や「模範」の対極に、「難治」村があった訳であるが、これらは絶対的な評価があった訳ではなく、むしろこの様に町村同志を相対的に競合させ、格差を強調しながら、全体として矛盾を外に出ないように統治していたのが、当時の地方自治制の特徴であった。