教育年限の延長とその影響

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教育費は町村財政中つねに大きな部分を占め、とくに日露戦争から戦後にかけて地方財政がひっ迫する中で、租税負担者は勿論、その運営にあたる町村当事者を大いに悩ませてきた。明治四〇年(一九〇七)三月の小学校令の改正は、これまでの義務教育四年の年限を六年に延長させた。
 校舎建築や教員増加という財政支出増大に直面して、町村では臨時的に特別寄付を徴収したり、公債の発行、町村費の値上げ等々の財政的措置がとられたが、町村内の国有林など官林払い下げで町村財産を蓄積し教育費に充当するという例も全国的にはかなり多く見られた。
 坂手村に起った問題も、校舎の増築費用四〇〇〇円の捻出のためにとられた官林払い下げに絡んだ不祥事であった。「事件」の詳細は省くが、一方で、司直の手に委ねられ、発生当時の村長と助役の二人が公文書偽造等で「有罪」という形で処分された。しかし他方払い下げ財産の帰属をめぐって民事訴訟が提起されたが、これは却下された。村ではこの「事件」を契機に村政が大いに停滞し、短かい間に村長がめまぐるしく替わり、県の職務管掌も受けた。
 しかし事態の進行は次第に署名運動の展開など役場執行部に対する非役場派の形成という、村内における対立の溝をふかくする様相を示し、隣村の豊岡や内守谷から「調停」がはいって、三年余に及んだ混乱が両派の示談で解決することになった。示談で取り交わされた文書は、「……後ハ末代ニ至ル迄何事正当ノ道ニ行フベキ事」と、末永く不正の事があってはならないと誓った。
 坂手村の問題が起った時期は、あたかも県が全力を挙げて、県下町村に「町村是」の策定を促進し、国の末端機構として町、村が整備される事が、何よりも国家発展の基礎になるとされていた真只中であった。豊岡村や、内守谷村は、そうした意味で県下の「模範」的な業績をあげている、実に対照的な存在だった。しかし同村ではその「調停」後も長く内守谷村から新井芳之助が代理村長として勤めたから、「事件」にまつわるしこりはなかなか氷解しなかった。義務教育年限延長はこのように財政問題や村政運営問題にまで大きな影響を与えた。しかし教育の発展、拡充は、本来そうしたマイナスの面ばかりでなく、町村の発展に幾多の新しい成果をもたらすことになる。