教育の項において小学校の統廃合問題について触れるが、明治四五年七月、それまで村政の対立を背景にして続いた菅生、大塚戸両校の分立状態は、大塚戸小学校が、菅生小学校の「分教場」となることで、「往年ノ盤根」を解決した。しかしこの統一は、学校の問題ではなく、村運営の根本問題であり、この時期にいたって、漸く行政村として、ひとつのまとまりが形成されたと見られる。その間にあって「菅友会」という青年組織が村内に形成され、積極的活動を展開していたが、こうした活動が学校統一を準備する動きであった。
菅友会は日露戦時下の明治三七年八月、菅生村の水海道中学在学者一五名によって組織された。当時は「不文実行」を旨として規約をもたず、行動としては講演会、試胆会、撃剣会、指名会、基本金貯蓄、雑誌発行、試作地設置、会員間の送迎、会創立紀念会などを行った。明治四三年四月、それまで村内に併存していた菅生青年会と合同するに至ったが、この統一の役割を果したのが、時の菅生尋常高等小学校長北条役三郎であり、以後会は益々隆盛に向った。
明治四四年、臨時総会を開き、「六大綱領」と会則を定めたが、ここでは、事務所を菅生尋常高等小学校内に置き、会長には同校長、幹事には同小学校男子教員を嘱託するなど、学校と村の青年会の一体的な活動が展開されることになった。事業主体として、雑誌部、図書部、運動部、農事部、慈善部の五部門が設置された。
雑誌部は毎月一回の雑誌発行を行い、会員の文章錬磨、会務掲載、意志発表、知識交換を図ることを目指した。図書部は会員や篤志家の寄贈による図書を会員や一般に公開し、閲覧に供するとし、運動部には撃剣、テニス、相撲の各部を置いた。また農芸部は諸事改良発達を図り、慈善部は、社会公共的事業を行い博愛の精神を鼓吹する、とした。
このように、小学校を拠点にした、こうした青年たちの活発な活動が展開されることにより、従来の一村二校という分立状態が見直され、実質的には低学年の通学の便を考慮した分教場として残されたが、菅生小学校として一本化を見た。またこの間、それ迄の絹西高等小学校が解散となり明治四四年高等科が菅生、内守谷、坂手各村の尋常小学校に併置されたことも、その統一に向う契機となった。