小学校の発足

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維新政府は、欧米近代の進んだ文化に伍して、国の発展を図るに当り、教育を最も重要な施策のひとつとして位置づけた。「必らず邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す」とうたった学制は、明治五年(一八七三)八月、頒布をみた。小学校は、六歳から四年間の下等と一〇歳から四年間の上等とにわかれ、各地にその設立が進められていった。
 この学校制度の発足は地域にとって、校舎設立、教員養成、意義の徹底等多くの課題をともなうものであったが、水海道地方における、学制頒布から小学校設立にいたる間の事情を、具体的に見てみることにしよう。
 明治五年九月、印旛県の大区会頭は、学制の施行にあたり、とりあえず小区に一小学校を設立したいので、そのための費用捻出方につき意見を述べて欲しいと各小区頭取に布達した。
 これを受けた水海道の秋場桂園(戸長頭取)は次のような回答を寄せた。すなわち、
 
   毎小区に一小学校を置くとはいっても、遠方から通うのはたいへんなので、当分はこれまでの塾などを
   利用し、教員は県の臨時師範学校(流山)に派遣して、教則等を身につけさせる。経費については、学齢
   に達した子供は経済的にも家の役に立っているのだから、改めて徴収するとなれば苦情が出る。従って
   学校費用は当分の間、租税に合わせた村高割とし、手近かな従来の塾へ通わせるのがよい。また教導職
   という役職を置き、老若男女を問わず人びとに対して教育の重要性を説いたならば、さらに効果があが
   る。(筆者意訳)
 
 このように桂園は、学校建設はその位置の決定や経費の点で難しい問題が多いから当面は従来の塾を組み込んで、それを生かしていく形をとり、その上で教導職を設置して人びとに「学制」の意義を理解させ、人びとの発意で小学校が建設されるようになるのが望ましいとしたのであった。現水海道市内における、各地小学校の設立状況は第一二表のとおりである。水海道駅では、横町の廃寺成就院にあった寺小屋を、その師匠大高欣斉が教師(訓導兼校長)となり絹水小学校をスタートさせたのがその始まりであった。建物は大部分が廃寺や寺院、民家で、従来の寺小屋に近いものであるのに、設立年次が各地により様々であるのは、公立の学校として正式に認可された年月の差によるものであった。つまり正式の教員資格のある者をえて、初めて設立認可になったものと思われる。
 
第12表 明治初期,水海道市域の小学校(『茨城県教育史』)
所  在  地校 名設立年校 舎教員生徒数授業料
下総国豊田郡水海道駅絹水学校明治5寺院借用15230
文海学校 〃 618541
大崎村大東学校 〃 71407
十花村豊花学校 〃 71457
中妻村中三学校 〃 7新築公有16810
中陽学校 〃 71608
三坂村波陽学校 〃 6寺院借用1626
中川崎村脩陽学校 〃 61698
上蛇村豊川学校 〃 7新築公有1649
下総国岡田郡大生郷村大生郷学校 〃 6民家借用1878
横曽根村横曽根学校 〃 6寺院借用110611
花島村花島学校 〃 616910
下総国相馬郡坂手村坂手学校 〃 82765
内守谷村内守谷学校 〃 7廃寺公有1318
大塚戸村大塚戸学校 〃 8寺院借用1525
菅生村菅生学校 〃 6民家借用210310