この学校制度の発足は地域にとって、校舎設立、教員養成、意義の徹底等多くの課題をともなうものであったが、水海道地方における、学制頒布から小学校設立にいたる間の事情を、具体的に見てみることにしよう。
明治五年九月、印旛県の大区会頭は、学制の施行にあたり、とりあえず小区に一小学校を設立したいので、そのための費用捻出方につき意見を述べて欲しいと各小区頭取に布達した。
これを受けた水海道の秋場桂園(戸長頭取)は次のような回答を寄せた。すなわち、
毎小区に一小学校を置くとはいっても、遠方から通うのはたいへんなので、当分はこれまでの塾などを
利用し、教員は県の臨時師範学校(流山)に派遣して、教則等を身につけさせる。経費については、学齢
に達した子供は経済的にも家の役に立っているのだから、改めて徴収するとなれば苦情が出る。従って
学校費用は当分の間、租税に合わせた村高割とし、手近かな従来の塾へ通わせるのがよい。また教導職
という役職を置き、老若男女を問わず人びとに対して教育の重要性を説いたならば、さらに効果があが
る。(筆者意訳)
このように桂園は、学校建設はその位置の決定や経費の点で難しい問題が多いから当面は従来の塾を組み込んで、それを生かしていく形をとり、その上で教導職を設置して人びとに「学制」の意義を理解させ、人びとの発意で小学校が建設されるようになるのが望ましいとしたのであった。現水海道市内における、各地小学校の設立状況は第一二表のとおりである。水海道駅では、横町の廃寺成就院にあった寺小屋を、その師匠大高欣斉が教師(訓導兼校長)となり絹水小学校をスタートさせたのがその始まりであった。建物は大部分が廃寺や寺院、民家で、従来の寺小屋に近いものであるのに、設立年次が各地により様々であるのは、公立の学校として正式に認可された年月の差によるものであった。つまり正式の教員資格のある者をえて、初めて設立認可になったものと思われる。
第12表 明治初期,水海道市域の小学校(『茨城県教育史』) |
所 在 地 | 校 名 | 設立年 | 校 舎 | 教員 | 生徒数 | 授業料 | ||
男 | 女 | |||||||
下総国豊田郡 | 水海道駅 | 絹水学校 | 明治5 | 寺院借用 | 1 | 52 | 30 | 有 |
〃 | 文海学校 | 〃 6 | 同 | 1 | 85 | 41 | 同 | |
大崎村 | 大東学校 | 〃 7 | 同 | 1 | 40 | 7 | 同 | |
十花村 | 豊花学校 | 〃 7 | 同 | 1 | 45 | 7 | 同 | |
中妻村 | 中三学校 | 〃 7 | 新築公有 | 1 | 68 | 10 | 同 | |
〃 | 中陽学校 | 〃 7 | 同 | 1 | 60 | 8 | 同 | |
三坂村 | 波陽学校 | 〃 6 | 寺院借用 | 1 | 62 | 6 | 同 | |
中川崎村 | 脩陽学校 | 〃 6 | 同 | 1 | 69 | 8 | 同 | |
上蛇村 | 豊川学校 | 〃 7 | 新築公有 | 1 | 64 | 9 | 同 | |
下総国岡田郡 | 大生郷村 | 大生郷学校 | 〃 6 | 民家借用 | 1 | 87 | 8 | 同 |
横曽根村 | 横曽根学校 | 〃 6 | 寺院借用 | 1 | 106 | 11 | 同 | |
花島村 | 花島学校 | 〃 6 | 同 | 1 | 69 | 10 | 同 | |
下総国相馬郡 | 坂手村 | 坂手学校 | 〃 8 | 同 | 2 | 76 | 5 | 同 |
内守谷村 | 内守谷学校 | 〃 7 | 廃寺公有 | 1 | 31 | 8 | 同 | |
大塚戸村 | 大塚戸学校 | 〃 8 | 寺院借用 | 1 | 52 | 5 | 同 | |
菅生村 | 菅生学校 | 〃 6 | 民家借用 | 2 | 103 | 10 | 同 |