生徒就学の状況

63 ~ 66 / 503ページ
明治一二年(一八七九)には、学制に代わって新たに教育令が出されたが、翌一三年には、この教育令も改正された。学制に対する人びとの不満がつのり、一時教育令で緩和しようとしたのであったが、これでも効果があがらず、すぐに厳しい制度に戻されたのである。改正教育令により、学制時の二四か月を一六か月に緩和した就学期間は三年に延長となり、授業日数三二週間以上、一日授業時間三時間以上六時間以内と定められた。また不就学者の取り締りも厳しくなり、小学校設置についても、教育令の届出制は認可制に改められた。学務委員も選挙制であったものが知事の任命制になり、明治一四年には小学校教員心得も出され教員の政治活動はまったく禁止された。明治一八年(一八八五)には、森有礼が文部大臣に就任し、翌一九年、小学校令が公布され教育改革がさらに進められる。
 このように政府による制度改革が断行されても、当時の教育状況には、困難な事が多かった。
 生徒の就学状況は、当時の社会における、教育に対する理解度を如実に示すものとなっている。つまり政府や県が如何に教育の重要性を訴え、就学を義務づけても、それを受けとめる国民の側の状態がそれを許さなかったのである。
 明治一七年(一八八四)当時における地域の就学状況(郡別)は、第一三表のとおりである。男子の就学率は県平均で六三パーセント余であり、豊田郡はそれを上回り、岡田郡はそれを六パーセント以上下廻っていた。女子の就学率の低かったことは、学齢に達した女子が家事を始めとする家内労働の上で、非常に重要な位置を占めていたことと、女子教育への理解が極めて低かったことを物語っている。全体として、豊田郡域に比し岡田郡域の方が、就学率が低かった。なお明治三〇年の就学状況も見ておくと、町村によって異なるが、いずれもかなり向上したことがわかる。男子では八〇~九〇パーセントに達した村(豊岡、大花羽)もあり、低いところでも六五パーセント前後になっているからである。また女子就学率も水海道町ではかなり高くなったが、全体的には各町村とも二〇~三〇パーセント台が多く、結城郡平均を下まわる状況であったことがわかる。
 
第13表 明治17年当時各郡就学率
 就  学  (人)不 就 学 (人)就 学 率 (%)
結城郡115149516469081484239255.9025.0140.76
岡田郡88318610696671164183156.9713.7836.86
豊田郡173750422418751787266266.5022.045.70
三郡合計37711185495624504435688560.6221.0841.85
茨城県46730144476117727032507707780263.3521.1544.02
「茨城教育協会雑誌第8号」より作成


 
 当時の学校の様子が記されている「中島清記録」をみると、初期の学校における子供たちの服装、身なり等が分かる。頭は散髪して「ピカ/\光らせて」いる者もあったが、チョン髷に結っている者も三、四割あった、という。
 
   衣服は例の角袖揃ひて冬期は土地で上流の子弟は羽織を被て居たか其他は尻きりの半纒を着るのが通例
   で白金巾の兵児帯を締る者も有たが襷であるか背負紐であるか何んたか分らない紐をグル/\巻付て来
   る児もあった。夏着も大概手織の堅固な木綿が多くあった。絣や中形などを着て来る児はなかった。……
   はき物は藁草履が多くあって下駄も切緒のものは極少ない大概バラ緒であった雨の降るときは菅笠を被
   て来る児が大勢いた、弁当箱は木製で小児用の物を持って来る児は少ない大抵長サ七八寸巾三寸深サ二
   寸位殆ど煉瓦の大さで中に菜を容る丈けのしきりのあるものを浅黄木綿の袋に入れて帯の結ひ目の上に
   結付る所謂腰弁当であった書物其他の用具をカバンに容れて来るのも稀には有ったが多くは袍に包んで
   来るそれで冬季浅黄の股引を穿て臀を端折て通学する状は如何にも奇観……
 
 中島のこの記録は明治四〇年頃に書かれているから、その時代の価値観がまじるが、明治八年から教員になった彼の目を通して初期小学校の光景が浮んでくる。
 また教育の内容であるが、「読み書きそろばん」と称されるように、寺小屋の延長の如き状態が続いた。明治一九年の小学校令で、修身、読書、作文、習字、体操が基本とされ、図画、唱歌なども取り入れることが認められた。福田貞助の記録では、明治一七年八月二二日、新石下小学校に南部学校教員が召集され、「教育体操ヲ伝習」せられたとある。この頃から体操が授業課目に加えられたことがわかるが、再び「中島清記録」で、授業の様子をみることにしよう。
 
   教授ノ課程ヤ時間割ナトハ確ニ定メラレテ有タガ中々実行ガ出来ナイカラ首トシテ毛筆ノ習字ヲサセテ
   其間ニ読書算術ヲ授ケ其余ノ時間テハ書取ト読方トノ自修ヲサセテオイタ、読方トテモ素読ハ主トシテ
   一週間ニ一度位講義ヲシタノテアル、今カラ見レハ一日二三時間位教授ト練習ヲシテイタノデアル而シ
   テ年長ノ生徒ニハ日本外史十八史略ナトノ素読ヲ教テ居タ……
 
 とあり、この「記録」からは、寺小屋と寸分違わない、当時の学校の授業内容が見てとれる。しかし学校においては年二回の進級試験が行われ、明治一八年からは卒業試験が毎年実施された。同年水海道小学校における卒業試験の状況は、「受験生二百九人内優等生五十四人及第生百六人落第生四十八人アリ」と記されている。この「卒業」とは、学年卒業を意味していた。