学校の統廃合と分離

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明治二二年(一八八九)の町村制で、三坂村と中妻村が合併して三妻村となったが、両村にあった小学校の合併はそれに先行して既に明治一九年一一月、学制の改正とともに三坂尋常小学校としてスタートしている。もっともその時点では校舎は別々にあり、翌二〇年一〇月になり、三坂三五番地に、両校の旧校舎を用いて開校した。このように述べてくると、同校の成立には何も問題がなかったかのように見られるが、実は明治一〇年代半ばに、学校をめぐって深刻な対立が村内に起こり、地域の人びとは、貴重な試錬の場を、既に体験していたのであった。その問題とは、三坂小学校の統合問題であった。
 三坂小学校は、豊田郡から印旛県の共立学舎に派遣された岡常吉が帰郷後赴任して、村内の廃寺、薬王院(夜光院)に開校の運びになった。たまたま三坂村は南北一里余で戸数三〇〇戸に至る大村であったから、この校舎の位置が北部に偏していたため南部の住民から不満が出て、明治一三年には白畑に分校が開設される。ところが明治一四年に至り、戸長選挙問題で村内がふたたび二分され、「甲派学事に熱心すれば乙派之れを妨害し乙派学事に尽力すれば甲派之を妨害」という状態になり、学事はないがしろにされた。明治一七年になると「世上一般の不景気なれば衰微益々甚しく」なり、両校の訓導はともに学校を去り、助手のみが残るという最悪の事態を迎えた。ここに至って、「村内に二校を置くのは不経済で、通学にもそれ程不便ではないから、一校を新築すべき」という意見が出て、その案が実行に移されることになった。
 しかし、村内の対立は益々エスカレートし、本校への放火未遂事件や新校舎推進派への厭がらせなど、様々な妨害がくり返され、計画はいっこうに進まなかった。こうした中で学務委員に当選した村内有力者の一人石塚猪三郎が、学校新築の必要性を全力を挙げて説いて回った。彼は「普通教育は二代目の我を教育すること」で「国家の興廃は此の普通教育にあらざれば之れより貴重なるものなかるべし」として、このために、兇徒から「家を焼かるる」とも「身を殺さるる」ともいわれたが、恐れなかった。校舎の建築が進むにつれ次第に彼に同調するものが現われ、建築期間中は「寝具もなき校舎に泊り其他工夫人足を薫督するの状況も狂者の如く」と全身全霊をこの校舎建設に打ち込んだ。かくして石塚の献身的な努力が実を結んで、明治一八年一一月には、間口九間半、奥行四間半の校舎が竣工し、村の内外を挙げて盛大な開校式が催された。
 同様の問題は、菅原地区にもあった。この村には、笹塚校と古間木校の二校があったが、明治一五年古間木校から大生郷新田と伊左衛門新田の二村が、「遠隔不便」を理由に分離し、大伊学校として独立した。経費は「両新田人民費金」をあて、教師には一身上の都合で古間木校を辞めていた福田貞助がついた。しかし、明治一九年、この学校は「放火」で焼失する。
 明治二二年以後は原則として各町村単位で学校運営が行われるようになったが、明治三一年、菅生村の大塚戸地区から起こった学校分離問題は、村会を二分する深刻なものであった。
 明治三一年(一八九八)九月、それ迄の村会内対立が持ち越されたまま、菅生小学校の新築問題が村会に提出された。これに対し大塚戸出身の議員四人は全員欠席したが議事が一方的に進められた。
 同年一一月に入って、大塚戸地区の四議員から、「尋常小学校増置ノ件」で臨時村会を開くよう請求があり、同月二四日、村長と四名の村議の出席のもと、大塚戸校の分離が決議された。菅生側の議員はその後直ちに村会を開き、一一月二四日の村会について対処策を講じることとなった。冒頭村長は、「小学校増置等の先の決議は郡長において、村長の職権外のことに属し、郡長が諮問案として村会に諮った時にのみ審議がなされるべきで、全く無効」という通告があった旨報告した。ここに至って分裂は固定化し、以後明治四五年、大塚戸校を菅生小学校の分教場とすることで円満解決を見る迄、約一三年間、二校併存という事態が継続した。
 また北相馬郡域の内守谷小学校と坂手小学校は、明治二〇年三月、合併させられて一時期坂手小学校となったが、町村制により両村が単独で行政村になると、学校も再び別々になった。合併していた時期は、僅かに二年半という短期間であった。