組合立高等小学校

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明治一九年(一八八六)四月、小学校令によって、各郡役所管轄に一、二の高等小学校を設置することが決められた。結城、岡田、豊田郡役所管内では、結城、豊田第一(宗道)、豊田第二(水海道)の三校が設置された。豊田第二高等小学校の範囲は、水海道町外豊田、岡田にまたがる現市域の六か村であった。校舎は、報国寺が使われ、松沢得三が訓導として教鞭をとった。
 明治二五年(一八九二)小学校令の改正で豊田第二高等小学校は廃止となり、水海道町外六か村の組合立高等小学校が現在の橋本町に設置され、校長には安島安が就いた。従来の松沢訓導は同年一二月から、再び組合立高等小学校訓導に復帰することとなった。
 当時は、小学校の就学率も低く、その上高等科に進む者も少なく、明治三〇年度の生徒数は男三九二人、女九九人、合計四九一人であった。第一四表にみる各小学校の就学生数と比較すると、高等科に進む者は極めて少数であった。遠距離のため町に下宿して通学する生徒もあった。
 
第14表 明治30年度各町,村学齢就学率
 就  学  (人)不 就 学 (人)就 学 率 (%)
水海道町41333875118119437569.5363.5366.70
大生村169722417219226470.1227.2747.72
五箇村188782666218319575.2036.9757.71
三妻村162942568915324264.5438.0651.41
豊岡村228562842320422790.8421.5455.58
大花羽村11757174268511181.8240.1461.09
菅原村172422148119527667.9817.7243.67
結城郡計66023082968418033982578578.5543.6362.60
「茨城郡教育会報告第2号」より作成


 
 高等小学校には校長一、訓導五、準訓導二の教員が居り(明治三四年)、その経費は、町村費の中で「負担金」として計上された。同年における負担額の一例をみると、水海道町が五二八円余、三妻村が一五三円余となっている。高等小学校には女子は少なかったが、女子教育が次第に発達したことに応じて、明治四四年(一九一一)定員一〇〇名で二年課程の実科高等女学校が併置された。この高等女学校は大正四年(一九一五)、組合立高等小学校が解散され、各町村の小学校にそれぞれ併設されるに及んで、御城実科高等女学校として独立した。
 なお、旧北相馬郡の絹西三か村においては、明治二九年(一八九六)、組合立絹西高等小学校が創立され、明治四四年、各村の尋常小学校に高等科が併設される迄の一五年間存続した。「菅生村郷土誌」中の「高等科入学ト卒業者トノ関係」より、同村から高等科へ入学した生徒数と、それに対する卒業生数を掲げると、第一五表のとおりである。
 
第15表 菅生小の卒業者数及び高等科入学者数
菅生小卒業生数高等科入学者(および同科卒業生)数

(同卒)

(同卒)

(同卒計)
明治2912 416 9( 5) 1( 1)10( 6)
  3023 62914(12) 2( 1)16(13)
  3122 52715(11) 5( 1)20(12)
  3232104220(15) 2( 0)22(15)
  3322123411( 7) 4( 4)15(11)
  3431164717(12) 5( 3)22(15)
  3524 73111( 8) 3( 1)14( 9)
  3640246418( 6) 7( 3)25( 9)
  3742307226(12) 5( 3)31(15)
  3832296124(13) 6( 1)30(14)
  3919214011( 4) 4( 2)15( 6)
  4035266113( 7)13( 6)26(13)


 
 小学校男子卒業生で組合立高等小学校へ進んだ者の比率は、高い年は七五パーセントであったが、概して五、六〇パーセント台で、絶対数では年々向上したものの、比率の点ではそれ程変わらなかった。女子の場合は、小学校卒業生数では年々増加をみている。これは不就学や中途退学が減少して、小学校教育がようやく定着したことを示すが、高等科へ進んだ者は、その絶対数では、きわめて低い所にあった。
 高等科入学者のうち、同科を卒業した者の比率をみると、高い年には八〇パーセントを越えたが、五〇パーセント台に達しない年もあり、概して安定した比率を示すには至らなかった。なお、絹西高等小学校が設立される以前の同地区三か村からは、水海道の豊田第二高等小学校または組合立高等小学校へ通学したが、菅生村の場合、各年を通じて十余名に過ぎなかったという(「菅生村郷土誌」)。