学制以前、どこの村にもあった私塾や寺小屋は、小学校の開設によって消滅した。しかし公立学校の補完的役割をになって、学校に就学出来ない子弟などに、ゆるい形での教育を継続していた。また高等小学校が置かれ、小学校課程卒業後、高等小学校に通うものが出てくると、地元で農作業の傍ら私塾に入り直す子供が出てきた。
明治一八年暮、一身上の都合で大伊小学校を辞した福田貞助は、翌年から家塾に力を入れ、二〇年正月頃からは「月謝領収簿ヲ製」する程の本格的経営をするようになった。
しかし、明治二三年五月、次に掲げる私塾の教師たち一五人は、水海道警察署から呼び出しを受け私塾をやめるよう厳重に申し渡され、請書に署名させられた。
○細野不動堂(豊岡村)伊藤佐助、福田貞助、坂野竹之助、中嶋谷松の四人
○細野(豊岡村)小林熊吉、○大生村広瀬政右衛門、服部安兵衛、田口四平の三人
○三妻村良禅寺春嶺、山尻中莖喜一
○五箇村塚田久三郎、飯田薫輔の二人
○福田村寺院(五箇村)柳田少進、○羽生五十嵐庸夫
○大生村画工大竹大次郎
これらのメンバーは旧来の塾に近い寺の住職のほか、芸術家、小学校教諭経験者などであった。しかし、私塾はその後も続けられ、その年九月、古間木善福寺へ私塾を設け、武州の木村定吉なる者を招いて生徒教育を試みる動きもあり、福田貞助は自らの塾ごとこれに合流した。翌明治二四年三月、右の古間木善福寺から自らの塾に戻ったが、福田を慕って移ってくる生徒がいた。そこに駐在所の巡査が訪れ、学齢児童を置くことは禁止されていると、六、七名の児童を連れ、尋常校へ入学せしめたという事件のあったことが記されている(福田氏経歴)。
しかし警察が学齢児童を置くことを禁じた外は、私塾禁止の理由はなく、普通校と併存して長く存続したのが、一般的であった。